壮大な世界観で数多くの読者を魅了してきた、中国原作の大人気史劇BL小説「将進酒(しょうしんしゅ)」。ファン待望の邦訳版第1巻が、2026年3月28日(土)頃に発売予定!通常版に加え、豪華特典付きの特装版は絶賛予約受付中です!
発売に先がけて、第四章までを無料公開いたします!
※こちらのページでは第二章までご覧いただけます。第三章・第四章は別ページよりご覧ください。
※読み仮名はこちらのページ上では()内に記載していますが、実際の書籍ではルビが入ります。
▼第三章・第四章はこちら
https://asiall.jp/s/lineup/news/detail/10013
---
第一章 寒風
「建興(けんこう)王、沈衛(シェンウェイ)は東北の茶石河(ちゃせきが)にて惨敗し、敦州(とんしゅう)の前線は即陥落、軍三万が茶石天坑(てんこう)に生き埋めとなった。お前もその中にいたはずなのに、なぜ一人生き延びている?」
沈澤川(シェンザーチュアン)は目の焦点が定まらず、問いに答えようとはしない。
審問人は力いっぱい台を叩くと、体を前へ傾け、残忍そうな鋭い眼光を放った。
「なぜなら沈衛(シェンウェイ)は早々に〔1〕辺沙(へんさ)十二部と結託し、中博(ちゅうはく)六州を献上することで話がついていたからだ。奴らと呼応して闃都(げきと)を攻めるつもりだったから、辺沙騎兵はお前を殺さなかった。違うか?」
〔1〕部は血縁を軸に結合した遊牧民の政治・軍事・生活単位のこと。辺沙十二部とは十二の異なる部族連合である
沈澤川(シェンザーチュアン)は乾ききって皮の剥けた唇を震わせた。審問人の話を聞くのもやっとで、喉をゆっくりと動かしながら言葉を絞り出す。
「ち、違う……」
審問人が凄(すご)みを利かせた声で言った。
「沈衛(シェンウェイ)は罪を認めて〔2〕自焚(じふん)し、密(ひそ)かに敵とやり取りしていた書簡は錦衣衛(きんいえい)から陛下にお渡しした。それでもまだ口を割らないつもりか。まったく強情なガキめ!」
〔2〕焼身自殺をすること
沈澤川(シェンザーチュアン)の頭は朦朧(もうろう)としていた。一体どれだけ眠っていないのだろうか。今の自分は、遥か高い天から吊るされた糸を摑(つか)んでいるような宙ぶらりんの状態だ。少しでも気を抜いて手を離してしまえば、真っ逆さまに落ちて粉々に砕けてしまうだろう。
審問人が供述書を広げて、ちらちらと目を落とす。
「昨夜お前はこう言っていた。生きて茶石天坑から出られたのは、自分の兄が救ってくれたからだと。違うか?」
その当時の光景が再び目の前に浮かんでくるような錯覚に襲われた。陥った坑(あな)はあまりに深く、無数の軍士が中でひしめき合っていた。這い上がろうにも這い上がれず、死体の山はますます高く積み上げられていくが、天坑の出口には届かない。辺沙騎兵が天坑を包囲し、寒々とした闇夜から矢が宙を切り裂く音が聞こえてくる。ふくらはぎが血溜まりに沈み、泣き叫ぶ声や死に瀕したうめき声が耳にこびりついて離れない。
沈澤川(シェンザーチュアン)は呼吸が浅くなり、椅子の上で震え始めた。我を忘れて髪を摑むと、堰(せき)を切ったように嗚咽(おえつ)を漏らす。
「嘘をつくな」
審問人が沈澤川(シェンザーチュアン)の目の前で供述書をかざし、指ではたいてみせた。
「お前の兄は建興王の嫡男、沈舟済(シェンジョウジー)。茶石天抗を目前に軍士三万を置き去りにした。そして私兵と逃げ出したものの、辺沙騎兵に捕まり、茶石河畔の官道を縄で引きずられたのだ。辺沙十二部が天坑で殺戮(さつりく)に及んでいた時は既に死んでいたのに、お前を助けられるわけがない」
沈澤川(シェンザーチュアン)の頭の中は混乱していた。審問人の声は天涯へと遠ざかったかのようで、泣き叫ぶ声だけが耳元で途絶えることなくこだましている。
出口はどこだ? 援軍はどこにいる? 死体が互いに重なり合い、腐臭を放つ朽ちた肉が手にのしかかってくる。暮(ムー)兄さんに頭を覆ってもらいながら、彼は血まみれの死体の上を這っていた。暮(ムー)兄さんの荒い呼吸に混じって、喉元からは嗚咽が漏れ出てくる。あまりに絶望的すぎた。
「俺は八面六臂(ろっぴ)の働きをする」
紀暮(ジームー)はかろうじて笑い顔を作ってみたが、頬は涙にまみれていた。それでもうめきながら話し続ける。
「俺は鉄壁みたいに硬くてびくともしない。少し辛抱すれば大丈夫だ。やり過ごせば援軍がやってくる。一緒に父さんと母さんを迎えに行くぞ。それから女房だって娶(めと)らないと……」
バン! 審問人が勢いよく台を叩き、まくしたてる。
「正直に白状しろ!」
まるで見えない枷(かせ)から逃れようとするかのように沈澤川(シェンザーチュアン)はもがき始めたが、集まってきた錦衣衛たちによって台に押しつけられた。
「お前はこの〔1〕詔獄(しょうごく)送りとなったが、まだ年端もいかないからと、きつい拷問をかけられずに済んでいるんだ。だがここまで物分かりが悪いようなら、俺たちが手荒な真似をしても恨んでくれるな。よし、思い知らせてやれ」
〔1〕皇帝の命令によって罪人を投獄する特別な監獄。錦衣衛が管理した
沈澤川(シェンザーチュアン)は両肩を縄で縛られた姿で、堂内の広い場所へ引きずり出されると、乱暴に置かれた縁台にうつぶせの姿で両脚も縛られた。傍らにいる熊虎(ゆうこ)のごとき図体の男が、手に持つ獄杖の重さを確かめてからおもむろに振り下ろす。
「もう一度聞く」
審問人は茶の泡を茶碗の蓋で隅に寄せ悠然と何口か含み、切り出した。
「沈衛(シェンウェイ)は敵と通じ、国を売ったのか?」
「違う、そうじゃない!」
沈澤川(シェンザーチュアン)は歯を食いしばり、〔2〕杖刑(じょうけい)を受けながらも息つくことなく、叫び続けている。
〔2〕木製の杖で罪人の背中、または臀部(でんぶ)を打つ刑罰
審問人が茶器を置いた。
「その意気で戦場に立っていれば、沈(シェン)家の人間がここへ送られることもなかった。そのまま打ち据えろ!」
徐々に持ちこたえられなくなってくる。沈澤川(シェンザーチュアン)は顔をうずめ、声をかすれさせながら言った。
「沈衛(シェンウェイ)は敵には通じていない……」
「茶石河で敗北を喫した全ての要因は、沈衛(シェンウェイ)がうかつにも敵を迎え入れたことにある。敦州(とんしゅう)の戦線は挽回の余地があり、兵力も上回っていたにもかかわらず奴が兵を退いたことで、端州(たんしゅう)を含む三城は陥落した。城内の数万もの民は辺沙軍の湾刀によって命を落としたんだぞ」
審問人はそこまで語ると、深々と嘆息し、恨みがましい口ぶりで続けた。
「中博六州には血の雨が降り、沈衛(シェンウェイ)が兵を率いて南に退いたが、灯州(とうしゅう)の一戦が最も怪しい。啓東(けいとう)の赤郡(せきぐん)守備軍が天妃闕(てんひけつ)を越えて救援に向かったというのに、沈衛(シェンウェイ)は敵を挟撃する策を取らずに、数千騎を割(さ)いて家族を丹城(たんじょう)へ送り届けた。これにより、灯州の防御線は一気に崩れてしまったんだぞ──これは意図したことなのか? もしも離北(りほく)鉄騎が三昼夜休まず南下して氷河(ひょうが)を渡らなければ、辺沙騎兵は闃都まで迫っていた!」
沈澤川(シェンザーチュアン)は意識が遠のき、冷や汗が滴(したた)った。審問人があざけるように投げつけた供述書が、後頭を直撃する。
「中博の男でいるより犬になり下がることを選ぶとは、実に嘆かわしい。沈衛(シェンウェイ)は大周(だいしゅう)の罪人となったのに、それでも認めないのか? お前はもはや認めるしかない!」
襲いかかる痛みで半身が麻痺する中、縁台に伏せる沈澤川(シェンザーチュアン)の目の前に供述書がかざされる。そこには墨汁ではっきりと記され、天下の全ての人々に告げていた。その一字一句が、まさに恥辱を与える鞭(むち)のごとく、彼の頬へと打ちつける。
沈衛(シェンウェイ)は国を売った、犬にも劣ると。
彼らは中博六州を骸(むくろ)で埋め尽くした。そして今に至るも茶石天坑に埋もれた遺体を家に連れて帰る者はいない。なぜなら敦州一帯の群城に住む人々は一人残らず殺されてしまったのだから。
沈衛(シェンウェイ)は自焚したが、生き残った誰かが、この血みどろの悲劇を背負わねばならない。沈衛(シェンウェイ)は妻妾を山ほど抱え息子も大勢いたが、辺沙騎兵が敦州を占領した際に全員死んでいた。沈澤川(シェンザーチュアン)だけが卑しい身分ということで、外地で育てられ難を免(まぬか)れたのである。
沈澤川(シェンザーチュアン)は引きずられて檻(おり)に戻された。脚から流れる血で、地面には引きずられた跡がしっかりと残っている。彼は壁に体を向けると、幅の狭い小窓を見上げた。寒々とした風が吹きすさび、雪が激しく打ちつけ、全てを呑(の)み込むような漆黒の夜がどこまでも続いていた。
意識が朦朧とする中、風の音が彼の意識を天坑へと引き戻す。
紀暮(ジームー)はもう虫の息だった。呼吸を続けることも苦しく、甲冑(かっちゅう)から流れる血が沈澤川(シェンザーチュアン)の首の後ろへと流れ落ちているが、その血もすぐにも冷たくなるだろう。周囲に響いていた泣き叫ぶ声はもう消えていて、残すは耐え難(がた)い苦痛によるうめき声と、吹きすさぶ風の咆哮(ほうこう)だけだ。
沈澤川(シェンザーチュアン)の目の前には変わり果てた死人(しびと)の顔があった。積まれた死体が脚にのしかかり、重い盾が腹や腰へと押しつけてくる。喘ぐ息は血の臭いしかしない。歯を食いしばりながら涙を流すも、声が出なかった。打ちひしがれたように、あちこち踏みつけられたその死人の顔を見つめるが、果たして知っている兵士だろうか。
「兄さん」
低い声で沈澤川(シェンザーチュアン)がすすり泣く。
「こ、怖い……」
紀暮(ジームー)は喉を動かすと、軽く沈澤川(シェンザーチュアン)の頭を叩いた。
「大丈夫……大丈夫だ」
そこへ死に際の兵士が歌う声が聞こえてきた。その歌声は狂ったように吹きつける風に切り裂かれ、寒々とした夜に空(むな)しく舞うぼろ布のようだ。
「〔1〕城南にて戦い……郭北に死す……野に死して葬らざれば……烏(からす)が食うべし」
〔1〕無名氏『鐃歌十八曲・戦城南』より。戦の場景を歌った詩
「兄さん」
身をかがめ沈澤川(シェンザーチュアン)は小声で言った。
「おぶっていくよ、兄さん」
紀暮(ジームー)の肉体は歪んだ盾のようだった。少し笑うと、かすれ声を漏らす。
「俺なら動ける」
「体に矢が刺さったのか?」
「まさか」
すっかり涙も乾いた顔で、紀暮(ジームー)は飄々(ひょうひょう)と答えた。
「……〔2〕辺沙薙髪(ちはつ)どもの射(い)る矢なんて命中するわけがない」
〔2〕辺沙兵を罵った言葉。辺沙人の男子の間で行われた頭髪を剃った髪形
沈澤川(シェンザーチュアン)の手も血まみれだったが、何とか顔を拭いた。
「〔3〕師娘(しじょう)が餃子を作ってくれてる。家に着いたらたくさん食べよう」
〔3〕師父の妻を指す
紀暮(ジームー)がため息をつく。
「……俺は食うのが遅い、先に……平らげるなよ」
沈澤川(シェンザーチュアン)が紀暮(ジームー)の下で力強く頷(うなず)いた。
紀暮(ジームー)の体の上に雪が少しずつ積もっていく。強烈な眠気に襲われる中、声も消え入りそうで、指を動かす気力も残っていない。歌も途切れ途切れに続いていたが、「梟騎(きょうき)戦にて死ぬも…」のくだりに差しかかったところで、紀暮(ジームー)は目を閉じた。
沈澤川(シェンザーチュアン)が口を開く。
「私の……私のお金を兄さんにあげるよ。これでお嫁さんを娶って……」
「兄さん」
「兄さん」
紀暮(ジームー)が答えることはなかった。話を聞き飽きて、つい寝込んでしまったかのように。
沈澤川(シェンザーチュアン)の全身がぶるぶると震え始めた。辺沙騎兵がいつその場を離れたのかも、自分がどうやって這いながら外に出たのかも覚えていない。腕をついて体を起こした時、辺りは一面の大雪で、死の静寂だけが広がっていた。折り重なる死体は膝の高さまで積まれていて、さながら捨てられた麻袋みたいだ。
這いつくばった姿勢で振り向くと、声にならない嗚咽が漏れ出てくる。
紀暮(ジームー)の背中には隙間もないほど矢がぎっしり刺さっていて、丸く縮こまった針鼠のようだった。あれほど自分の背中に血が流れていたというのに、全く気づかずにいたなんて。
重苦しい雷鳴のように、疾走する蹄(ひづめ)の音が追いかけてくる。突然体が激しく震え、沈澤川(シェンザーチュアン)は我に返った。
吐き気を催すも、両腕は縄でしっかり結ばれていて、土の入った麻袋が体を押さえつけている。
麻袋がどんどん重くなり胸を圧迫していった。声を出そうにも出せない。「土袋で押し潰して殺す」とは、もっぱら犯人の口封じのために使われる獄中での常套(じょうとう)手段で、いかなる傷口も残さない。もし今しがた沈澤川(シェンザーチュアン)が目覚めることなく明日が来ていたら、間違いなく冷たくなっていただろう。
誰かが彼を殺そうとしていたのだ!
第二章 杖殺
薄暗い詔獄の明かりの中、沈澤川(シェンザーチュアン)の手足は震え、息苦しさが増していった。麻縄はきつく締められ、解こうと両腕でもがき続けるが、びくともしない。
麻袋に胸を圧迫され、深い水の底へと投げ込まれたような錯覚を覚えた。キーンという音が耳をつんざき、鼻息が荒くなって、まるで溺れているかのように呼吸が続けられない。
沈澤川(シェンザーチュアン)は目玉を動かして、檻(おり)の外に置かれた蝋燭(ろうそく)の炎を見つめた。
錦衣衛が数人酒を飲みながら、〔1〕劃拳(ホワチュエン)に興じていて、振り返る気配すらない。土袋に押しつけられた彼は粗末なむしろの上で動けずにいる。息のできない不快感が洪水のごとく押し寄せ、意識を埋没させていった。
〔1〕酒席での遊戯。それぞれ任意の数の指を突き出す指遊び
目の前がチカチカしてくる。頭を持ち上げ、歯を食いしばって脚を動かそうとしたが、杖刑で両脚はほぼ麻痺していて、脚を上げようにも何の感覚もなかった。木板の左隅に触れると、そこは虫食いでぼろぼろになっている。ここに連れてこられた日、座った際いくらか壊れてしまったのだ。
呼吸することがますます苦しくなってくる。
その部分に足を置き、思いっきり踏みつけるが、力が入らないため、板は音も立てずびくともしなかった。冷汗がとめどなく流れ、背中はぐっしょり濡れている。
生きたい。
沈澤川(シェンザーチュアン)は狂ったように喉からうめき声を絞り出すと、舌を嚙まんばかりに、板を踏み続けた。
紀暮(ジームー)の変わり果てた姿が、彼の体に鞭打ち、生きたいという思いを駆り立てる。紀暮(ジームー)の声がこだまするように今も耳に響いていた。
生きなければ!
一心不乱に板に足をぶつけ続け、やっと救いの音が聞こえた。床板が半分ほど崩れ、体が傾くと、麻袋もずり落ちていく。溺れていた人がやっと水面に顔を出して呼吸するかのごとく、口を開けてぜいぜいと喘いだ。
地べたはひんやりとして、負傷した脚は言うことを聞かない。肘をついて体を支えると、鼻梁(びりょう)を伝って汗が滴った。牢は寒かったが、体中が燃えているかのようで、煮えたぎる五臓六腑(ごぞうろっぷ)にこらえきれず、うつむいて空えずきをする。
沈衛(シェンウェイ)は死して当然だ。
中博は十二万の兵馬を擁(よう)し、六州に分かれて防御線を張っていたが、茶石河の敗戦後、辺沙騎兵は敦州へと侵入した。審問人の言ったとおり、まだ挽回の余地はあった。沈衛(シェンウェイ)の兵馬は屈強で、兵糧は豊富、端州三城を守る軍を動員する権限も持っていたのに、どういったわけなのか、沈衛(シェンウェイ)は端州を捨て、逃げ帰るように敦州にある王府に隠れてしまったのである。
これが中博陥落の始まりであった。辺沙騎兵によって端州三城は皆殺しとなり、士気の下がった守兵はあたふたと南へと撤退した。沈衛(シェンウェイ)が敦州で辺沙十二部と死闘を繰り広げると誰もが考えていたのに、当の本人はまたも風のように逃げてしまったのだから。
中博軍は崩れるように敗戦を重ね、辺沙騎兵はさながら鋭く光を放つ鋼の刀のごとく、六州全土に突き刺さった。軽装に身を包み全力で馬を走らせてやってきた彼らは、一戦ごとに略奪してはそれを蓄え、ついに周(しゅう)国の王都である闃都より八百里の所まで迫ったのだ。
もし沈衛(シェンウェイ)が撤退時に城内の兵糧を焼き払い、敵に何も物資を残さないことを徹底していれば、辺沙騎兵もここまで深く侵入することはなかっただろう。前線への補給がない彼らは、攻め入った城内で食糧を補充するしかなく、それが焼き尽くされてしまえば、いくら猛々しい辺沙騎兵といえども腹を空かせるしかない。
腹が空けば戦(いくさ)を続ける術(すべ)はない。同時に、離北鉄騎が氷河を渡って辺沙十二部の退路を断ち、啓東五郡の守備軍が天妃闕より辺沙十二部の逃げ道を押さえれば、湾刀を振り回す薙髪どもは袋の鼠となり、冬を越せるはずがなかった。
しかし沈衛(シェンウェイ)はそうはしなかった。
抵抗することをやめただけでなく、城内の兵糧を全て辺沙騎兵にくれてやったのだ。辺沙騎兵は周の人々の食糧に頼り、周の人々の城(まち)を滅ぼした。辺沙騎兵の馬は沈衛(シェンウェイ)によってまるまると肥え、逃げてきた民や捕虜となった兵士は一晩のうちに天坑に落とされ、一人残らず殺されたのである。
沈澤川(シェンザーチュアン)はそこから逃げ延びてきたのだ。
闃都ではこの顛末(てんまつ)について片をつける必要があった。
生前の沈衛(シェンウェイ)が下した指令は軽率でしかなく、その動きは確かに辺沙十二部と示し合わせていたように見える。ところが沈衛(シェンウェイ)は罪を恐れ自焚してしまった。己を焼き尽くしただけでなく全ての書簡も処分して。何事をするにも疾風迅雷(しっぷうじんらい)のごとく迅速な錦衣衛といえども、こうなってはお手上げだった。
皇帝が真相究明を求める以上、彼らは事情を知る可能性のある沈澤川(シェンザーチュアン)を尋問し続けるしかないが、彼の生母は端州の芸妓(げいぎ)だった。沈衛(シェンウェイ)の息子は山ほどおり、沈澤川(シェンザーチュアン)は上から八番目の庶子である。沈(シェン)家にとってお呼びでない彼は、早々に敦州王府から追い出されて端州の在野で育ったため、沈衛(シェンウェイ)自身、この息子の存在を忘れてしまったほどだ。
その彼を誰かが殺そうとしていた。
ただそれもあり得ない話ではない。彼は父親に代わって闃都に送られてきたのだから。中博沈(シェン)氏で唯一の残党であり、父の罪は子が償うものである。詔獄での尋問が終われば、中博敦州における茶石河の一戦で生き埋めとなった軍士三万を弔うため、皇帝は彼の命を捧(ささ)げるだろう。
だがこのような暗殺という形であっていいのか。
沈澤川(シェンザーチュアン)は親指で唇の端を拭(ぬぐ)い、頭を傾け血の混じった唾を吐き捨てた。
沈衛(シェンウェイ)が確実に敵と通じて謀反を企(くわだ)てたのなら、沈澤川(シェンザーチュアン)も遅かれ早かれ死ぬのだ。わざわざ余計な手間をかけてこの無名の庶子を殺す必要はない。闃都で審問を恐れる者がいるとすれば、沈衛(シェンウェイ)の敗戦にもきっと裏がある。
沈澤川(シェンザーチュアン)は何も知らなかった。
彼は端州に師がいて、兄弟ともいえるのが師の一粒種の紀暮(ジームー)だった。彼にとって沈衛(シェンウェイ)はただの建興王にすぎず、自分とは何の関係もない存在である。沈衛(シェンウェイ)が敵と通じていたかなど、知りようがない。
しかし彼は必ず否定しなければならないのだ。
地べたの冷気が骨身に染みた。這っている沈澤川(シェンザーチュアン)にとっては芯まで凍(こご)えるほどで、昼間よりも神経が研ぎ澄まされる。彼は皇帝の下命で錦衣衛が捕らえた重罪犯だ。手配書、捕縛令、許可を与える文書など全ての書簡が皇帝直々の命令によって出され、その身柄は離北世子(せいし)の蕭既明(シャオジーミン)の手から直接詔獄へと送られ、〔1〕三法司(さんほうし)による審問も省かれたのだ。
〔1〕司法関係の三官庁の併称。本作では刑部(けいぶ)、都察院(とさついん)、大理寺(だいりじ)を指す
これは皇帝が本気であるという意志の表れであり、徹底的に調査するとの決意が見て取れる。だからこそ、誰がこれほど大胆不敵に、こんな状況下で危険を冒したのだろうか。皇帝が審問を行う前に彼を亡き者にしようとしたのだから。
寒々とした風がうなるように窓に吹きつけ、沈澤川(シェンザーチュアン)は眼球を動かしながら暗闇の壁を見つめている。再び瞼(まぶた)を閉じる勇気はなかった。
僅(わず)かながら太陽が顔を覗(のぞ)かせた翌日、彼は改めて大堂に連れていかれた。外は吹雪いて雪が積もっている。この数日冷徹な表情で対峙していた審問人が満面の笑みを浮かべ、両手で茶を持ちながら、〔2〕太師椅子(たいしいす)の横で恭(うやうや)しく待機していた。
〔2〕中国の伝統家具のうち唯一官名がついている椅子。北宋が起源とされる
椅子に座っていたのは青白い顔で髭(ひげ)も蓄えていない老いぼれの宦官(かんがん)だった。〔3〕天鵞絨(てんがじゅう)の生地でできた〔4〕煙墩帽(えんとんぼう)をかぶり、衣には〔5〕葫蘆(ころ)が刺繍された〔6〕補子(ほし)がついている。〔7〕氅衣(しょうい)はまだ脱いでおらず、ごてごてと珠で梅をあしらった手炉を手に持ち瞑想している。物音を耳にすると目を開き、視線を沈澤川(シェンザーチュアン)へと向けた。
〔3〕ビロードのこと
〔4〕宦官の礼帽
〔5〕瓢箪のこと。福禄と発音が近いため縁起物とされる
〔6〕階級を表わすために胸前につけた四角い記章
〔7〕男性用の外套
「義父(ちち)上」
この数日、下命により尋問を行っていた紀雷(ジーレイ)が腰を曲げながら言った。
「こやつが建興王沈衛(シェンウェイ)の残党です」
潘如貴(パンルーグイ)が沈澤川(シェンザーチュアン)を見つめる。
「なぜこんなことになった?」
その問いが沈澤川(シェンザーチュアン)のみすぼらしい姿のことを意味していないことくらい、紀雷(ジーレイ)も分かっていた。ここに至るまで供述が取れていない理由を問うたのである。
額から汗がにじんだが、紀雷(ジーレイ)には拭う勇気もなかった。腰を曲げたままの姿勢で答える。
「この若造は愚かで、中博から連れてきてから意識が朦朧としています。誰の指図を受けたのか、全く口を割ろうとしません」
「陛下ご所望の重罪犯だ」
潘如貴(パンルーグイ)は茶を受け取ることなく、続けた。
「十五、六の子供が、かの詔獄送りとなり、紀(ジー)殿が自ら尋問しているにもかかわらず、供述書一枚も書けずにいるとは驚きだ」
紀雷(ジーレイ)は茶を持ちながら、苦笑いを漏らす。
「陛下がご所望の重罪犯だからこそ、私の一存で拷問するわけにもいきません。送られてきた時、こやつは〔8〕風寒に侵されておりました。うかつに加減もせず死なせるようなことがあれば、沈衛(シェンウェイ)の事案は解決できずに終わってしまいます」
〔8〕風邪と寒気が組み合わさった病
潘如貴(パンルーグイ)はしばらく沈澤川(シェンザーチュアン)を見つめて言った。
「我らは主(あるじ)の座下(ざか)に控える犬である。牙が鋭くなければ、手元に置いても意味はない。大変であることも分かるが、それもお前たちの任務の範疇(はんちゅう)だ。陛下が自らこやつを審問するのも、お前たち錦衣衛を労(ねぎら)ってのこと。恨み言など吐いていいわけがない」
それを聞いて紀雷(ジーレイ)が慌ててひれ伏す。
「義父上の仰せのとおりです。教えを頂戴(ちょうだい)しました」
潘如貴(パンルーグイ)は「ふむ」と頷いて続けた。
「こやつを清潔にしてやれ。こんなに汚れていたら、陛下にお目通りもできん」
雑役が沈澤川(シェンザーチュアン)を連れていく。体を洗われ、脚の傷を軽く手当てしてもらうと、清潔な綿の衣を身に着けた。何をするにもなすがまま、しかも足取りもおぼつかないため、馬車に乗る際はそれなりに時間を要した。
ようやく潘如貴(パンルーグイ)が紀雷(ジーレイ)から茶を受け取ると、沈澤川(シェンザーチュアン)の後ろ姿を眺めながら言った。
「あれは本当に沈(シェン)氏の残党なのか?」
紀雷(ジーレイ)が答える。
「間違いありません。茶石天坑での唯一の生き残りです。離北蕭(シャオ)世子が自ら捕らえ、離北鉄騎が護送車で運んできました。道中は誰とも接触していません」
潘如貴(パンルーグイ)は冷めた茶を少し口に含むと、しばらくして皮肉めいた笑いを漏らした。
「蕭(シャオ)世子は実に慎重だな」
⬥ ⬥ ⬥ ⬥ ⬥ ⬥
沈澤川(シェンザーチュアン)は馬車を降りると、錦衣衛によって長い道を引っ張られた。顔にぼた雪が吹きつけていく中、道を先導する宦官は無駄話もせず足早に進んでいく。
潘如貴(パンルーグイ)が明理堂(めいりどう)へと到着すると、軒下にいた若い〔1〕太監(たいかん)がそそくさと駆け寄り、恭しく出迎えた。氅衣を脱がせてやると、新しい上着を羽織らせ手炉を受け取る。既に奥には通達されており、潘如貴(パンルーグイ)が門前で叩頭(こうとう)して伝えた。
〔1〕宦官の別称
「陛下、連れてまいりました」
しばらくして、ようやく低くゆったりした声が返ってくる。
「入れ」
沈澤川(シェンザーチュアン)の呼吸が一瞬止まったが、そのまま支えられて足を踏み入れた。中からは香がほのかに漂うも、それほど蒸し暑いわけでもない。咳き込む声が途切れ途切れに聞こえると、両側に立つ脚を横目で確認した。
咸徳帝(かんとくてい)は濃紺の道袍(どうほう)に身を包んでおり、やせ細った背中は骨が浮き出ている。この羸弱(るいじゃく)な皇帝は、皇位を継承してから三年、次から次へと大小さまざまな病を患ってきた。玉座に身を沈めるその面長な顔は気血が足りないためか、余計に清秀な気品を引き立てている。
「紀雷(ジーレイ)は何日尋問した」
咸徳帝は後ろで跪(ひざまず)いている紀雷(ジーレイ)を横目で見た。
「何か聞き出せたか?」
叩頭して紀雷(ジーレイ)が答える。
「お答えします。この童(わっぱ)は供述が二転三転し辻褄(つじつま)も合いません。この数日の供述は矛盾だらけで、信用ならぬかと」
「供述書をここへ」
紀雷(ジーレイ)は懐(ふところ)から内容をまとめた供述書を取り出すと、両手で潘如貴(パンルーグイ)に渡した。潘如貴(パンルーグイ)が小走りで前へ進むと、身を低くして咸徳帝に差し出す。
咸徳帝はざっと目を通したが、茶石天坑のくだりに差しかかると口を手で覆い咳き込み始めた。潘如貴(パンルーグイ)が拭こうとするのも制止し、手巾で唇ににじむ血を拭いながら低い声で言った。
「三万もの軍士が天坑で命を落とした。沈衛(シェンウェイ)が死なぬことには、人神ともに憤(いきどお)るであろう!」
沈澤川(シェンザーチュアン)は目を閉じ、鼓動が速まるのを感じた。果たして、時を置かずして、咸徳帝の声が聞こえてくる。
「頭を上げよ!」
呼吸が速まり、地べたに突っ伏す沈澤川(シェンザーチュアン)の手のひらは氷のように冷たくなっている。ゆっくり頭を上げると、恐る恐る咸徳帝の履物に視線の先を落とした。
咸徳帝が視線を向ける。
「お前は沈衛(シェンウェイ)の息子であり、茶石天坑での唯一の生き残りだな。何か申すことはあるか?」
目の縁(ふち)が次第に赤く染まっていく。沈澤川(シェンザーチュアン)は小刻みに身を震わせ、嗚咽し始めるが言葉にならない。
咸徳帝は顔色を変えることなく続けた。
「朕(ちん)の問いに答えよ!」
沈澤川(シェンザーチュアン)はとっさに目線を上げた。瞳から涙があふれ、頬を伝っていく。ほんの一瞬顔を上げたかと思うと、激しく額を地面に打ちつけ、両肩を震わせながら、喉から絞り出すように声を上げる。
「陛下……陛下! 父の心は国とともにありました。戦いに敗れ、祖国に対して申し訳が立たず、中博の人々に合わせる顔がないと、自焚して謝罪したのです!」
「たわ言を申すな! 国とともにあるのなら、なぜ一度ならず二度も兵を退いた?」
咸徳帝に詰問(きつもん)され、沈澤川(シェンザーチュアン)はむせび泣きながら弱々しく答えた。
「父は息子を全員戦場へと送り出しました。一番上の兄、沈舟済(シェンジョウジー)は茶石の官道にて辺沙人に捕らわれ、馬に引きずられながら死んでいったのです。忠心なくして、ここまで耐えていられたでしょうか」
「茶石の一戦について言及するとは見上げた度胸だ。沈舟済(シェンジョウジー)は敵前逃亡した。罪は許されぬ」
沈澤川(シェンザーチュアン)は咸徳帝を仰ぎ見た。涙が雨のように流れ、声がしゃがれる。
「茶石河の一戦では、多くの血が流れました。兄は愚かで無能ではありましたが、三日凌(しの)ぎ、この三日で軍の内情は啓東、離北へと伝わったのです。この三日がなければ……」
しかし喉が詰まり先を続けられない。
咸徳帝は手中の供述書を見ていた。堂内は静まり、沈澤川(シェンザーチュアン)のすすり泣く声だけが響いている。この終わりが見えない沈黙の中、沈澤川(シェンザーチュアン)の握った拳には爪が食い込んでいた。
おもむろに咸徳帝が嘆息して口を開く。
「沈衛(シェンウェイ)は敵に通じていたのか?」
「いいえ」
きっぱりと、躊躇(ちゅうちょ)することなく、沈澤川(シェンザーチュアン)が答える。
すると咸徳帝は供述書を脇に置き、冷たい声色で言い放った。
「小賢しい青二才め、君主を欺(あざむ)こうとする輩(やから)は、生かしてはおけん。潘如貴(パンルーグイ)、こやつをつまみ出し、端成門(たんせいもん)にて死ぬまで打ち据えよ!」
「拝命しました」
潘如貴(パンルーグイ)は直(ただ)ちに命令を受けると、恭しく退出した。
頭から冷や水を浴びせられたように、沈澤川(シェンザーチュアン)がにわかに体を震わせ始める。猛然と抗(あらが)ってはみたものの、錦衣衛からきつく口を覆われ、即座に明理堂から連れ出されてしまった。
---
(C)『将進酒』/唐酒卿/晋江文学城
(C)Sony Music Solutions Inc.
▼第三章・第四章はこちら
https://asiall.jp/s/lineup/news/detail/10013
■イントロダクション
中博(ちゅうはく)六州が外敵に献上された。沈澤川(シェン・ザーチュアン)は罪人として都へ送られ、無残にも打ち据えられる。それを嗅ぎつけた蕭馳野(シャオ・チーイエ)は、他人は手出し無用と、沈澤川へ激しい一蹴りを見舞うが、逆に沈澤川から噛みつかれ、その手は鮮血にまみれてしまう。こうして、荒ぶる狼としたたかな狐の二人は、会えば心が波立つ因縁の仲となるのだった……。
──命運は一生我をこの地に縛りつけようとしたが、それは己で決めた道ではなかった。黄砂が仲間を埋めた以上、二度と空しい命運に屈したくはない。聖旨が我が兵を助けられず、朝廷が我が馬を飢えさせるのならば、これ以上命を懸けてたまるか。我はあの山を越え、己のために戦う。
■ストーリー
第1巻
中博(ちゅうはく)六州が陥落した。生き残った沈澤川(シェン・ザーチュアン)は敵前逃亡した沈衛(シェン・ウェイ)の八子であることから罪人として周の都・闃都(げきと)で厳しい尋問を受けていたが、同じ頃に上京していた北の国境を守る離北王の次子・蕭馳野(シャオ・チーイエ)から激しい蹴りを見舞われる。蕭馳野はそのまま闃都に残って禁軍総督となり、咸徳帝(かんとくてい)の弟である楚王・李建恒(リー・ジエンホン)と頻繁に花街を遊び歩いていた。五年後、沈澤川は咸徳帝と太后の恩赦により、監禁されていた昭罪寺を出て錦衣衛の任に就く。その夜、沈澤川と蕭馳野は因縁の再会を果たし、以来お互い錦衣衛と禁軍という立場から何かにつけ顔を合わせるようになる。そして秋の狩猟行事を境に周の政局は大きく変わり、二人も少しずつ互いの領域へと踏み込んでいく——。
■商品情報
発売日:2026年3月28日(土)頃
作者:唐酒卿
装画:長陽
訳 :本多由枝
発行・発売:株式会社ソニー・ミュージックソリューションズ
●小説「将進酒」第1巻【通常版】(しょうしんしゅ)
定価:¥2,552(本体価格¥2,320+税)
●小説「将進酒」第1巻【特装版】(しょうしんしゅ)
定価:¥5,192(本体価格¥4,720+税)
―― 特典として、描き下ろしイラストのオリジナル策舟アクリルスタンド(2個セット)が付く豪華特装版。
※通常版は一般流通、特装版はアニメイトとステラワースのみでの販売となります。
※特装版は数量に限りがございます。
■法人特典
小説「将進酒」第1巻 通常版・特装版 共通
●ステラワース=缶マグネット
●アニメイト=フォトカード
※数量には限りがございます。
■販売情報
●ステラワース
小説「将進酒」第1巻【通常版】(しょうしんしゅ)/法人特典付
https://www.stellaworth.co.jp/shop/item_list.php?category_id=&kw=110126
小説「将進酒」第1巻【特装版】(しょうしんしゅ)/法人特典付
https://www.stellaworth.co.jp/shop/item_list.php?category_id=&kw=110125
●アニメイト
小説「将進酒」第1巻【通常版】(しょうしんしゅ)/法人特典付
https://www.animate-onlineshop.jp/pn/pd/3280312/
小説「将進酒」第1巻【特装版】(しょうしんしゅ)/法人特典付
https://www.animate-onlineshop.jp/pn/pd/3280313/
■関連する公式サイト&公式X
ソニー・ミュージックソリューションズ配給作品 の公式サイト(ASIALL):https://asiall.jp/
本作に関するXでの公式情報発信(ゆるゆる配給漫筆):https://x.com/yuruyurumai?s=20
発売に先がけて、第四章までを無料公開いたします!
※こちらのページでは第二章までご覧いただけます。第三章・第四章は別ページよりご覧ください。
※読み仮名はこちらのページ上では()内に記載していますが、実際の書籍ではルビが入ります。
▼第三章・第四章はこちら
https://asiall.jp/s/lineup/news/detail/10013
---
第一章 寒風
「建興(けんこう)王、沈衛(シェンウェイ)は東北の茶石河(ちゃせきが)にて惨敗し、敦州(とんしゅう)の前線は即陥落、軍三万が茶石天坑(てんこう)に生き埋めとなった。お前もその中にいたはずなのに、なぜ一人生き延びている?」
沈澤川(シェンザーチュアン)は目の焦点が定まらず、問いに答えようとはしない。
審問人は力いっぱい台を叩くと、体を前へ傾け、残忍そうな鋭い眼光を放った。
「なぜなら沈衛(シェンウェイ)は早々に〔1〕辺沙(へんさ)十二部と結託し、中博(ちゅうはく)六州を献上することで話がついていたからだ。奴らと呼応して闃都(げきと)を攻めるつもりだったから、辺沙騎兵はお前を殺さなかった。違うか?」
〔1〕部は血縁を軸に結合した遊牧民の政治・軍事・生活単位のこと。辺沙十二部とは十二の異なる部族連合である
沈澤川(シェンザーチュアン)は乾ききって皮の剥けた唇を震わせた。審問人の話を聞くのもやっとで、喉をゆっくりと動かしながら言葉を絞り出す。
「ち、違う……」
審問人が凄(すご)みを利かせた声で言った。
「沈衛(シェンウェイ)は罪を認めて〔2〕自焚(じふん)し、密(ひそ)かに敵とやり取りしていた書簡は錦衣衛(きんいえい)から陛下にお渡しした。それでもまだ口を割らないつもりか。まったく強情なガキめ!」
〔2〕焼身自殺をすること
沈澤川(シェンザーチュアン)の頭は朦朧(もうろう)としていた。一体どれだけ眠っていないのだろうか。今の自分は、遥か高い天から吊るされた糸を摑(つか)んでいるような宙ぶらりんの状態だ。少しでも気を抜いて手を離してしまえば、真っ逆さまに落ちて粉々に砕けてしまうだろう。
審問人が供述書を広げて、ちらちらと目を落とす。
「昨夜お前はこう言っていた。生きて茶石天坑から出られたのは、自分の兄が救ってくれたからだと。違うか?」
その当時の光景が再び目の前に浮かんでくるような錯覚に襲われた。陥った坑(あな)はあまりに深く、無数の軍士が中でひしめき合っていた。這い上がろうにも這い上がれず、死体の山はますます高く積み上げられていくが、天坑の出口には届かない。辺沙騎兵が天坑を包囲し、寒々とした闇夜から矢が宙を切り裂く音が聞こえてくる。ふくらはぎが血溜まりに沈み、泣き叫ぶ声や死に瀕したうめき声が耳にこびりついて離れない。
沈澤川(シェンザーチュアン)は呼吸が浅くなり、椅子の上で震え始めた。我を忘れて髪を摑むと、堰(せき)を切ったように嗚咽(おえつ)を漏らす。
「嘘をつくな」
審問人が沈澤川(シェンザーチュアン)の目の前で供述書をかざし、指ではたいてみせた。
「お前の兄は建興王の嫡男、沈舟済(シェンジョウジー)。茶石天抗を目前に軍士三万を置き去りにした。そして私兵と逃げ出したものの、辺沙騎兵に捕まり、茶石河畔の官道を縄で引きずられたのだ。辺沙十二部が天坑で殺戮(さつりく)に及んでいた時は既に死んでいたのに、お前を助けられるわけがない」
沈澤川(シェンザーチュアン)の頭の中は混乱していた。審問人の声は天涯へと遠ざかったかのようで、泣き叫ぶ声だけが耳元で途絶えることなくこだましている。
出口はどこだ? 援軍はどこにいる? 死体が互いに重なり合い、腐臭を放つ朽ちた肉が手にのしかかってくる。暮(ムー)兄さんに頭を覆ってもらいながら、彼は血まみれの死体の上を這っていた。暮(ムー)兄さんの荒い呼吸に混じって、喉元からは嗚咽が漏れ出てくる。あまりに絶望的すぎた。
「俺は八面六臂(ろっぴ)の働きをする」
紀暮(ジームー)はかろうじて笑い顔を作ってみたが、頬は涙にまみれていた。それでもうめきながら話し続ける。
「俺は鉄壁みたいに硬くてびくともしない。少し辛抱すれば大丈夫だ。やり過ごせば援軍がやってくる。一緒に父さんと母さんを迎えに行くぞ。それから女房だって娶(めと)らないと……」
バン! 審問人が勢いよく台を叩き、まくしたてる。
「正直に白状しろ!」
まるで見えない枷(かせ)から逃れようとするかのように沈澤川(シェンザーチュアン)はもがき始めたが、集まってきた錦衣衛たちによって台に押しつけられた。
「お前はこの〔1〕詔獄(しょうごく)送りとなったが、まだ年端もいかないからと、きつい拷問をかけられずに済んでいるんだ。だがここまで物分かりが悪いようなら、俺たちが手荒な真似をしても恨んでくれるな。よし、思い知らせてやれ」
〔1〕皇帝の命令によって罪人を投獄する特別な監獄。錦衣衛が管理した
沈澤川(シェンザーチュアン)は両肩を縄で縛られた姿で、堂内の広い場所へ引きずり出されると、乱暴に置かれた縁台にうつぶせの姿で両脚も縛られた。傍らにいる熊虎(ゆうこ)のごとき図体の男が、手に持つ獄杖の重さを確かめてからおもむろに振り下ろす。
「もう一度聞く」
審問人は茶の泡を茶碗の蓋で隅に寄せ悠然と何口か含み、切り出した。
「沈衛(シェンウェイ)は敵と通じ、国を売ったのか?」
「違う、そうじゃない!」
沈澤川(シェンザーチュアン)は歯を食いしばり、〔2〕杖刑(じょうけい)を受けながらも息つくことなく、叫び続けている。
〔2〕木製の杖で罪人の背中、または臀部(でんぶ)を打つ刑罰
審問人が茶器を置いた。
「その意気で戦場に立っていれば、沈(シェン)家の人間がここへ送られることもなかった。そのまま打ち据えろ!」
徐々に持ちこたえられなくなってくる。沈澤川(シェンザーチュアン)は顔をうずめ、声をかすれさせながら言った。
「沈衛(シェンウェイ)は敵には通じていない……」
「茶石河で敗北を喫した全ての要因は、沈衛(シェンウェイ)がうかつにも敵を迎え入れたことにある。敦州(とんしゅう)の戦線は挽回の余地があり、兵力も上回っていたにもかかわらず奴が兵を退いたことで、端州(たんしゅう)を含む三城は陥落した。城内の数万もの民は辺沙軍の湾刀によって命を落としたんだぞ」
審問人はそこまで語ると、深々と嘆息し、恨みがましい口ぶりで続けた。
「中博六州には血の雨が降り、沈衛(シェンウェイ)が兵を率いて南に退いたが、灯州(とうしゅう)の一戦が最も怪しい。啓東(けいとう)の赤郡(せきぐん)守備軍が天妃闕(てんひけつ)を越えて救援に向かったというのに、沈衛(シェンウェイ)は敵を挟撃する策を取らずに、数千騎を割(さ)いて家族を丹城(たんじょう)へ送り届けた。これにより、灯州の防御線は一気に崩れてしまったんだぞ──これは意図したことなのか? もしも離北(りほく)鉄騎が三昼夜休まず南下して氷河(ひょうが)を渡らなければ、辺沙騎兵は闃都まで迫っていた!」
沈澤川(シェンザーチュアン)は意識が遠のき、冷や汗が滴(したた)った。審問人があざけるように投げつけた供述書が、後頭を直撃する。
「中博の男でいるより犬になり下がることを選ぶとは、実に嘆かわしい。沈衛(シェンウェイ)は大周(だいしゅう)の罪人となったのに、それでも認めないのか? お前はもはや認めるしかない!」
襲いかかる痛みで半身が麻痺する中、縁台に伏せる沈澤川(シェンザーチュアン)の目の前に供述書がかざされる。そこには墨汁ではっきりと記され、天下の全ての人々に告げていた。その一字一句が、まさに恥辱を与える鞭(むち)のごとく、彼の頬へと打ちつける。
沈衛(シェンウェイ)は国を売った、犬にも劣ると。
彼らは中博六州を骸(むくろ)で埋め尽くした。そして今に至るも茶石天坑に埋もれた遺体を家に連れて帰る者はいない。なぜなら敦州一帯の群城に住む人々は一人残らず殺されてしまったのだから。
沈衛(シェンウェイ)は自焚したが、生き残った誰かが、この血みどろの悲劇を背負わねばならない。沈衛(シェンウェイ)は妻妾を山ほど抱え息子も大勢いたが、辺沙騎兵が敦州を占領した際に全員死んでいた。沈澤川(シェンザーチュアン)だけが卑しい身分ということで、外地で育てられ難を免(まぬか)れたのである。
沈澤川(シェンザーチュアン)は引きずられて檻(おり)に戻された。脚から流れる血で、地面には引きずられた跡がしっかりと残っている。彼は壁に体を向けると、幅の狭い小窓を見上げた。寒々とした風が吹きすさび、雪が激しく打ちつけ、全てを呑(の)み込むような漆黒の夜がどこまでも続いていた。
意識が朦朧とする中、風の音が彼の意識を天坑へと引き戻す。
紀暮(ジームー)はもう虫の息だった。呼吸を続けることも苦しく、甲冑(かっちゅう)から流れる血が沈澤川(シェンザーチュアン)の首の後ろへと流れ落ちているが、その血もすぐにも冷たくなるだろう。周囲に響いていた泣き叫ぶ声はもう消えていて、残すは耐え難(がた)い苦痛によるうめき声と、吹きすさぶ風の咆哮(ほうこう)だけだ。
沈澤川(シェンザーチュアン)の目の前には変わり果てた死人(しびと)の顔があった。積まれた死体が脚にのしかかり、重い盾が腹や腰へと押しつけてくる。喘ぐ息は血の臭いしかしない。歯を食いしばりながら涙を流すも、声が出なかった。打ちひしがれたように、あちこち踏みつけられたその死人の顔を見つめるが、果たして知っている兵士だろうか。
「兄さん」
低い声で沈澤川(シェンザーチュアン)がすすり泣く。
「こ、怖い……」
紀暮(ジームー)は喉を動かすと、軽く沈澤川(シェンザーチュアン)の頭を叩いた。
「大丈夫……大丈夫だ」
そこへ死に際の兵士が歌う声が聞こえてきた。その歌声は狂ったように吹きつける風に切り裂かれ、寒々とした夜に空(むな)しく舞うぼろ布のようだ。
「〔1〕城南にて戦い……郭北に死す……野に死して葬らざれば……烏(からす)が食うべし」
〔1〕無名氏『鐃歌十八曲・戦城南』より。戦の場景を歌った詩
「兄さん」
身をかがめ沈澤川(シェンザーチュアン)は小声で言った。
「おぶっていくよ、兄さん」
紀暮(ジームー)の肉体は歪んだ盾のようだった。少し笑うと、かすれ声を漏らす。
「俺なら動ける」
「体に矢が刺さったのか?」
「まさか」
すっかり涙も乾いた顔で、紀暮(ジームー)は飄々(ひょうひょう)と答えた。
「……〔2〕辺沙薙髪(ちはつ)どもの射(い)る矢なんて命中するわけがない」
〔2〕辺沙兵を罵った言葉。辺沙人の男子の間で行われた頭髪を剃った髪形
沈澤川(シェンザーチュアン)の手も血まみれだったが、何とか顔を拭いた。
「〔3〕師娘(しじょう)が餃子を作ってくれてる。家に着いたらたくさん食べよう」
〔3〕師父の妻を指す
紀暮(ジームー)がため息をつく。
「……俺は食うのが遅い、先に……平らげるなよ」
沈澤川(シェンザーチュアン)が紀暮(ジームー)の下で力強く頷(うなず)いた。
紀暮(ジームー)の体の上に雪が少しずつ積もっていく。強烈な眠気に襲われる中、声も消え入りそうで、指を動かす気力も残っていない。歌も途切れ途切れに続いていたが、「梟騎(きょうき)戦にて死ぬも…」のくだりに差しかかったところで、紀暮(ジームー)は目を閉じた。
沈澤川(シェンザーチュアン)が口を開く。
「私の……私のお金を兄さんにあげるよ。これでお嫁さんを娶って……」
「兄さん」
「兄さん」
紀暮(ジームー)が答えることはなかった。話を聞き飽きて、つい寝込んでしまったかのように。
沈澤川(シェンザーチュアン)の全身がぶるぶると震え始めた。辺沙騎兵がいつその場を離れたのかも、自分がどうやって這いながら外に出たのかも覚えていない。腕をついて体を起こした時、辺りは一面の大雪で、死の静寂だけが広がっていた。折り重なる死体は膝の高さまで積まれていて、さながら捨てられた麻袋みたいだ。
這いつくばった姿勢で振り向くと、声にならない嗚咽が漏れ出てくる。
紀暮(ジームー)の背中には隙間もないほど矢がぎっしり刺さっていて、丸く縮こまった針鼠のようだった。あれほど自分の背中に血が流れていたというのに、全く気づかずにいたなんて。
重苦しい雷鳴のように、疾走する蹄(ひづめ)の音が追いかけてくる。突然体が激しく震え、沈澤川(シェンザーチュアン)は我に返った。
吐き気を催すも、両腕は縄でしっかり結ばれていて、土の入った麻袋が体を押さえつけている。
麻袋がどんどん重くなり胸を圧迫していった。声を出そうにも出せない。「土袋で押し潰して殺す」とは、もっぱら犯人の口封じのために使われる獄中での常套(じょうとう)手段で、いかなる傷口も残さない。もし今しがた沈澤川(シェンザーチュアン)が目覚めることなく明日が来ていたら、間違いなく冷たくなっていただろう。
誰かが彼を殺そうとしていたのだ!
第二章 杖殺
薄暗い詔獄の明かりの中、沈澤川(シェンザーチュアン)の手足は震え、息苦しさが増していった。麻縄はきつく締められ、解こうと両腕でもがき続けるが、びくともしない。
麻袋に胸を圧迫され、深い水の底へと投げ込まれたような錯覚を覚えた。キーンという音が耳をつんざき、鼻息が荒くなって、まるで溺れているかのように呼吸が続けられない。
沈澤川(シェンザーチュアン)は目玉を動かして、檻(おり)の外に置かれた蝋燭(ろうそく)の炎を見つめた。
錦衣衛が数人酒を飲みながら、〔1〕劃拳(ホワチュエン)に興じていて、振り返る気配すらない。土袋に押しつけられた彼は粗末なむしろの上で動けずにいる。息のできない不快感が洪水のごとく押し寄せ、意識を埋没させていった。
〔1〕酒席での遊戯。それぞれ任意の数の指を突き出す指遊び
目の前がチカチカしてくる。頭を持ち上げ、歯を食いしばって脚を動かそうとしたが、杖刑で両脚はほぼ麻痺していて、脚を上げようにも何の感覚もなかった。木板の左隅に触れると、そこは虫食いでぼろぼろになっている。ここに連れてこられた日、座った際いくらか壊れてしまったのだ。
呼吸することがますます苦しくなってくる。
その部分に足を置き、思いっきり踏みつけるが、力が入らないため、板は音も立てずびくともしなかった。冷汗がとめどなく流れ、背中はぐっしょり濡れている。
生きたい。
沈澤川(シェンザーチュアン)は狂ったように喉からうめき声を絞り出すと、舌を嚙まんばかりに、板を踏み続けた。
紀暮(ジームー)の変わり果てた姿が、彼の体に鞭打ち、生きたいという思いを駆り立てる。紀暮(ジームー)の声がこだまするように今も耳に響いていた。
生きなければ!
一心不乱に板に足をぶつけ続け、やっと救いの音が聞こえた。床板が半分ほど崩れ、体が傾くと、麻袋もずり落ちていく。溺れていた人がやっと水面に顔を出して呼吸するかのごとく、口を開けてぜいぜいと喘いだ。
地べたはひんやりとして、負傷した脚は言うことを聞かない。肘をついて体を支えると、鼻梁(びりょう)を伝って汗が滴った。牢は寒かったが、体中が燃えているかのようで、煮えたぎる五臓六腑(ごぞうろっぷ)にこらえきれず、うつむいて空えずきをする。
沈衛(シェンウェイ)は死して当然だ。
中博は十二万の兵馬を擁(よう)し、六州に分かれて防御線を張っていたが、茶石河の敗戦後、辺沙騎兵は敦州へと侵入した。審問人の言ったとおり、まだ挽回の余地はあった。沈衛(シェンウェイ)の兵馬は屈強で、兵糧は豊富、端州三城を守る軍を動員する権限も持っていたのに、どういったわけなのか、沈衛(シェンウェイ)は端州を捨て、逃げ帰るように敦州にある王府に隠れてしまったのである。
これが中博陥落の始まりであった。辺沙騎兵によって端州三城は皆殺しとなり、士気の下がった守兵はあたふたと南へと撤退した。沈衛(シェンウェイ)が敦州で辺沙十二部と死闘を繰り広げると誰もが考えていたのに、当の本人はまたも風のように逃げてしまったのだから。
中博軍は崩れるように敗戦を重ね、辺沙騎兵はさながら鋭く光を放つ鋼の刀のごとく、六州全土に突き刺さった。軽装に身を包み全力で馬を走らせてやってきた彼らは、一戦ごとに略奪してはそれを蓄え、ついに周(しゅう)国の王都である闃都より八百里の所まで迫ったのだ。
もし沈衛(シェンウェイ)が撤退時に城内の兵糧を焼き払い、敵に何も物資を残さないことを徹底していれば、辺沙騎兵もここまで深く侵入することはなかっただろう。前線への補給がない彼らは、攻め入った城内で食糧を補充するしかなく、それが焼き尽くされてしまえば、いくら猛々しい辺沙騎兵といえども腹を空かせるしかない。
腹が空けば戦(いくさ)を続ける術(すべ)はない。同時に、離北鉄騎が氷河を渡って辺沙十二部の退路を断ち、啓東五郡の守備軍が天妃闕より辺沙十二部の逃げ道を押さえれば、湾刀を振り回す薙髪どもは袋の鼠となり、冬を越せるはずがなかった。
しかし沈衛(シェンウェイ)はそうはしなかった。
抵抗することをやめただけでなく、城内の兵糧を全て辺沙騎兵にくれてやったのだ。辺沙騎兵は周の人々の食糧に頼り、周の人々の城(まち)を滅ぼした。辺沙騎兵の馬は沈衛(シェンウェイ)によってまるまると肥え、逃げてきた民や捕虜となった兵士は一晩のうちに天坑に落とされ、一人残らず殺されたのである。
沈澤川(シェンザーチュアン)はそこから逃げ延びてきたのだ。
闃都ではこの顛末(てんまつ)について片をつける必要があった。
生前の沈衛(シェンウェイ)が下した指令は軽率でしかなく、その動きは確かに辺沙十二部と示し合わせていたように見える。ところが沈衛(シェンウェイ)は罪を恐れ自焚してしまった。己を焼き尽くしただけでなく全ての書簡も処分して。何事をするにも疾風迅雷(しっぷうじんらい)のごとく迅速な錦衣衛といえども、こうなってはお手上げだった。
皇帝が真相究明を求める以上、彼らは事情を知る可能性のある沈澤川(シェンザーチュアン)を尋問し続けるしかないが、彼の生母は端州の芸妓(げいぎ)だった。沈衛(シェンウェイ)の息子は山ほどおり、沈澤川(シェンザーチュアン)は上から八番目の庶子である。沈(シェン)家にとってお呼びでない彼は、早々に敦州王府から追い出されて端州の在野で育ったため、沈衛(シェンウェイ)自身、この息子の存在を忘れてしまったほどだ。
その彼を誰かが殺そうとしていた。
ただそれもあり得ない話ではない。彼は父親に代わって闃都に送られてきたのだから。中博沈(シェン)氏で唯一の残党であり、父の罪は子が償うものである。詔獄での尋問が終われば、中博敦州における茶石河の一戦で生き埋めとなった軍士三万を弔うため、皇帝は彼の命を捧(ささ)げるだろう。
だがこのような暗殺という形であっていいのか。
沈澤川(シェンザーチュアン)は親指で唇の端を拭(ぬぐ)い、頭を傾け血の混じった唾を吐き捨てた。
沈衛(シェンウェイ)が確実に敵と通じて謀反を企(くわだ)てたのなら、沈澤川(シェンザーチュアン)も遅かれ早かれ死ぬのだ。わざわざ余計な手間をかけてこの無名の庶子を殺す必要はない。闃都で審問を恐れる者がいるとすれば、沈衛(シェンウェイ)の敗戦にもきっと裏がある。
沈澤川(シェンザーチュアン)は何も知らなかった。
彼は端州に師がいて、兄弟ともいえるのが師の一粒種の紀暮(ジームー)だった。彼にとって沈衛(シェンウェイ)はただの建興王にすぎず、自分とは何の関係もない存在である。沈衛(シェンウェイ)が敵と通じていたかなど、知りようがない。
しかし彼は必ず否定しなければならないのだ。
地べたの冷気が骨身に染みた。這っている沈澤川(シェンザーチュアン)にとっては芯まで凍(こご)えるほどで、昼間よりも神経が研ぎ澄まされる。彼は皇帝の下命で錦衣衛が捕らえた重罪犯だ。手配書、捕縛令、許可を与える文書など全ての書簡が皇帝直々の命令によって出され、その身柄は離北世子(せいし)の蕭既明(シャオジーミン)の手から直接詔獄へと送られ、〔1〕三法司(さんほうし)による審問も省かれたのだ。
〔1〕司法関係の三官庁の併称。本作では刑部(けいぶ)、都察院(とさついん)、大理寺(だいりじ)を指す
これは皇帝が本気であるという意志の表れであり、徹底的に調査するとの決意が見て取れる。だからこそ、誰がこれほど大胆不敵に、こんな状況下で危険を冒したのだろうか。皇帝が審問を行う前に彼を亡き者にしようとしたのだから。
寒々とした風がうなるように窓に吹きつけ、沈澤川(シェンザーチュアン)は眼球を動かしながら暗闇の壁を見つめている。再び瞼(まぶた)を閉じる勇気はなかった。
僅(わず)かながら太陽が顔を覗(のぞ)かせた翌日、彼は改めて大堂に連れていかれた。外は吹雪いて雪が積もっている。この数日冷徹な表情で対峙していた審問人が満面の笑みを浮かべ、両手で茶を持ちながら、〔2〕太師椅子(たいしいす)の横で恭(うやうや)しく待機していた。
〔2〕中国の伝統家具のうち唯一官名がついている椅子。北宋が起源とされる
椅子に座っていたのは青白い顔で髭(ひげ)も蓄えていない老いぼれの宦官(かんがん)だった。〔3〕天鵞絨(てんがじゅう)の生地でできた〔4〕煙墩帽(えんとんぼう)をかぶり、衣には〔5〕葫蘆(ころ)が刺繍された〔6〕補子(ほし)がついている。〔7〕氅衣(しょうい)はまだ脱いでおらず、ごてごてと珠で梅をあしらった手炉を手に持ち瞑想している。物音を耳にすると目を開き、視線を沈澤川(シェンザーチュアン)へと向けた。
〔3〕ビロードのこと
〔4〕宦官の礼帽
〔5〕瓢箪のこと。福禄と発音が近いため縁起物とされる
〔6〕階級を表わすために胸前につけた四角い記章
〔7〕男性用の外套
「義父(ちち)上」
この数日、下命により尋問を行っていた紀雷(ジーレイ)が腰を曲げながら言った。
「こやつが建興王沈衛(シェンウェイ)の残党です」
潘如貴(パンルーグイ)が沈澤川(シェンザーチュアン)を見つめる。
「なぜこんなことになった?」
その問いが沈澤川(シェンザーチュアン)のみすぼらしい姿のことを意味していないことくらい、紀雷(ジーレイ)も分かっていた。ここに至るまで供述が取れていない理由を問うたのである。
額から汗がにじんだが、紀雷(ジーレイ)には拭う勇気もなかった。腰を曲げたままの姿勢で答える。
「この若造は愚かで、中博から連れてきてから意識が朦朧としています。誰の指図を受けたのか、全く口を割ろうとしません」
「陛下ご所望の重罪犯だ」
潘如貴(パンルーグイ)は茶を受け取ることなく、続けた。
「十五、六の子供が、かの詔獄送りとなり、紀(ジー)殿が自ら尋問しているにもかかわらず、供述書一枚も書けずにいるとは驚きだ」
紀雷(ジーレイ)は茶を持ちながら、苦笑いを漏らす。
「陛下がご所望の重罪犯だからこそ、私の一存で拷問するわけにもいきません。送られてきた時、こやつは〔8〕風寒に侵されておりました。うかつに加減もせず死なせるようなことがあれば、沈衛(シェンウェイ)の事案は解決できずに終わってしまいます」
〔8〕風邪と寒気が組み合わさった病
潘如貴(パンルーグイ)はしばらく沈澤川(シェンザーチュアン)を見つめて言った。
「我らは主(あるじ)の座下(ざか)に控える犬である。牙が鋭くなければ、手元に置いても意味はない。大変であることも分かるが、それもお前たちの任務の範疇(はんちゅう)だ。陛下が自らこやつを審問するのも、お前たち錦衣衛を労(ねぎら)ってのこと。恨み言など吐いていいわけがない」
それを聞いて紀雷(ジーレイ)が慌ててひれ伏す。
「義父上の仰せのとおりです。教えを頂戴(ちょうだい)しました」
潘如貴(パンルーグイ)は「ふむ」と頷いて続けた。
「こやつを清潔にしてやれ。こんなに汚れていたら、陛下にお目通りもできん」
雑役が沈澤川(シェンザーチュアン)を連れていく。体を洗われ、脚の傷を軽く手当てしてもらうと、清潔な綿の衣を身に着けた。何をするにもなすがまま、しかも足取りもおぼつかないため、馬車に乗る際はそれなりに時間を要した。
ようやく潘如貴(パンルーグイ)が紀雷(ジーレイ)から茶を受け取ると、沈澤川(シェンザーチュアン)の後ろ姿を眺めながら言った。
「あれは本当に沈(シェン)氏の残党なのか?」
紀雷(ジーレイ)が答える。
「間違いありません。茶石天坑での唯一の生き残りです。離北蕭(シャオ)世子が自ら捕らえ、離北鉄騎が護送車で運んできました。道中は誰とも接触していません」
潘如貴(パンルーグイ)は冷めた茶を少し口に含むと、しばらくして皮肉めいた笑いを漏らした。
「蕭(シャオ)世子は実に慎重だな」
⬥ ⬥ ⬥ ⬥ ⬥ ⬥
沈澤川(シェンザーチュアン)は馬車を降りると、錦衣衛によって長い道を引っ張られた。顔にぼた雪が吹きつけていく中、道を先導する宦官は無駄話もせず足早に進んでいく。
潘如貴(パンルーグイ)が明理堂(めいりどう)へと到着すると、軒下にいた若い〔1〕太監(たいかん)がそそくさと駆け寄り、恭しく出迎えた。氅衣を脱がせてやると、新しい上着を羽織らせ手炉を受け取る。既に奥には通達されており、潘如貴(パンルーグイ)が門前で叩頭(こうとう)して伝えた。
〔1〕宦官の別称
「陛下、連れてまいりました」
しばらくして、ようやく低くゆったりした声が返ってくる。
「入れ」
沈澤川(シェンザーチュアン)の呼吸が一瞬止まったが、そのまま支えられて足を踏み入れた。中からは香がほのかに漂うも、それほど蒸し暑いわけでもない。咳き込む声が途切れ途切れに聞こえると、両側に立つ脚を横目で確認した。
咸徳帝(かんとくてい)は濃紺の道袍(どうほう)に身を包んでおり、やせ細った背中は骨が浮き出ている。この羸弱(るいじゃく)な皇帝は、皇位を継承してから三年、次から次へと大小さまざまな病を患ってきた。玉座に身を沈めるその面長な顔は気血が足りないためか、余計に清秀な気品を引き立てている。
「紀雷(ジーレイ)は何日尋問した」
咸徳帝は後ろで跪(ひざまず)いている紀雷(ジーレイ)を横目で見た。
「何か聞き出せたか?」
叩頭して紀雷(ジーレイ)が答える。
「お答えします。この童(わっぱ)は供述が二転三転し辻褄(つじつま)も合いません。この数日の供述は矛盾だらけで、信用ならぬかと」
「供述書をここへ」
紀雷(ジーレイ)は懐(ふところ)から内容をまとめた供述書を取り出すと、両手で潘如貴(パンルーグイ)に渡した。潘如貴(パンルーグイ)が小走りで前へ進むと、身を低くして咸徳帝に差し出す。
咸徳帝はざっと目を通したが、茶石天坑のくだりに差しかかると口を手で覆い咳き込み始めた。潘如貴(パンルーグイ)が拭こうとするのも制止し、手巾で唇ににじむ血を拭いながら低い声で言った。
「三万もの軍士が天坑で命を落とした。沈衛(シェンウェイ)が死なぬことには、人神ともに憤(いきどお)るであろう!」
沈澤川(シェンザーチュアン)は目を閉じ、鼓動が速まるのを感じた。果たして、時を置かずして、咸徳帝の声が聞こえてくる。
「頭を上げよ!」
呼吸が速まり、地べたに突っ伏す沈澤川(シェンザーチュアン)の手のひらは氷のように冷たくなっている。ゆっくり頭を上げると、恐る恐る咸徳帝の履物に視線の先を落とした。
咸徳帝が視線を向ける。
「お前は沈衛(シェンウェイ)の息子であり、茶石天坑での唯一の生き残りだな。何か申すことはあるか?」
目の縁(ふち)が次第に赤く染まっていく。沈澤川(シェンザーチュアン)は小刻みに身を震わせ、嗚咽し始めるが言葉にならない。
咸徳帝は顔色を変えることなく続けた。
「朕(ちん)の問いに答えよ!」
沈澤川(シェンザーチュアン)はとっさに目線を上げた。瞳から涙があふれ、頬を伝っていく。ほんの一瞬顔を上げたかと思うと、激しく額を地面に打ちつけ、両肩を震わせながら、喉から絞り出すように声を上げる。
「陛下……陛下! 父の心は国とともにありました。戦いに敗れ、祖国に対して申し訳が立たず、中博の人々に合わせる顔がないと、自焚して謝罪したのです!」
「たわ言を申すな! 国とともにあるのなら、なぜ一度ならず二度も兵を退いた?」
咸徳帝に詰問(きつもん)され、沈澤川(シェンザーチュアン)はむせび泣きながら弱々しく答えた。
「父は息子を全員戦場へと送り出しました。一番上の兄、沈舟済(シェンジョウジー)は茶石の官道にて辺沙人に捕らわれ、馬に引きずられながら死んでいったのです。忠心なくして、ここまで耐えていられたでしょうか」
「茶石の一戦について言及するとは見上げた度胸だ。沈舟済(シェンジョウジー)は敵前逃亡した。罪は許されぬ」
沈澤川(シェンザーチュアン)は咸徳帝を仰ぎ見た。涙が雨のように流れ、声がしゃがれる。
「茶石河の一戦では、多くの血が流れました。兄は愚かで無能ではありましたが、三日凌(しの)ぎ、この三日で軍の内情は啓東、離北へと伝わったのです。この三日がなければ……」
しかし喉が詰まり先を続けられない。
咸徳帝は手中の供述書を見ていた。堂内は静まり、沈澤川(シェンザーチュアン)のすすり泣く声だけが響いている。この終わりが見えない沈黙の中、沈澤川(シェンザーチュアン)の握った拳には爪が食い込んでいた。
おもむろに咸徳帝が嘆息して口を開く。
「沈衛(シェンウェイ)は敵に通じていたのか?」
「いいえ」
きっぱりと、躊躇(ちゅうちょ)することなく、沈澤川(シェンザーチュアン)が答える。
すると咸徳帝は供述書を脇に置き、冷たい声色で言い放った。
「小賢しい青二才め、君主を欺(あざむ)こうとする輩(やから)は、生かしてはおけん。潘如貴(パンルーグイ)、こやつをつまみ出し、端成門(たんせいもん)にて死ぬまで打ち据えよ!」
「拝命しました」
潘如貴(パンルーグイ)は直(ただ)ちに命令を受けると、恭しく退出した。
頭から冷や水を浴びせられたように、沈澤川(シェンザーチュアン)がにわかに体を震わせ始める。猛然と抗(あらが)ってはみたものの、錦衣衛からきつく口を覆われ、即座に明理堂から連れ出されてしまった。
---
(C)『将進酒』/唐酒卿/晋江文学城
(C)Sony Music Solutions Inc.
▼第三章・第四章はこちら
https://asiall.jp/s/lineup/news/detail/10013
■イントロダクション
中博(ちゅうはく)六州が外敵に献上された。沈澤川(シェン・ザーチュアン)は罪人として都へ送られ、無残にも打ち据えられる。それを嗅ぎつけた蕭馳野(シャオ・チーイエ)は、他人は手出し無用と、沈澤川へ激しい一蹴りを見舞うが、逆に沈澤川から噛みつかれ、その手は鮮血にまみれてしまう。こうして、荒ぶる狼としたたかな狐の二人は、会えば心が波立つ因縁の仲となるのだった……。
──命運は一生我をこの地に縛りつけようとしたが、それは己で決めた道ではなかった。黄砂が仲間を埋めた以上、二度と空しい命運に屈したくはない。聖旨が我が兵を助けられず、朝廷が我が馬を飢えさせるのならば、これ以上命を懸けてたまるか。我はあの山を越え、己のために戦う。
■ストーリー
第1巻
中博(ちゅうはく)六州が陥落した。生き残った沈澤川(シェン・ザーチュアン)は敵前逃亡した沈衛(シェン・ウェイ)の八子であることから罪人として周の都・闃都(げきと)で厳しい尋問を受けていたが、同じ頃に上京していた北の国境を守る離北王の次子・蕭馳野(シャオ・チーイエ)から激しい蹴りを見舞われる。蕭馳野はそのまま闃都に残って禁軍総督となり、咸徳帝(かんとくてい)の弟である楚王・李建恒(リー・ジエンホン)と頻繁に花街を遊び歩いていた。五年後、沈澤川は咸徳帝と太后の恩赦により、監禁されていた昭罪寺を出て錦衣衛の任に就く。その夜、沈澤川と蕭馳野は因縁の再会を果たし、以来お互い錦衣衛と禁軍という立場から何かにつけ顔を合わせるようになる。そして秋の狩猟行事を境に周の政局は大きく変わり、二人も少しずつ互いの領域へと踏み込んでいく——。
■商品情報
発売日:2026年3月28日(土)頃
作者:唐酒卿
装画:長陽
訳 :本多由枝
発行・発売:株式会社ソニー・ミュージックソリューションズ
●小説「将進酒」第1巻【通常版】(しょうしんしゅ)
定価:¥2,552(本体価格¥2,320+税)
●小説「将進酒」第1巻【特装版】(しょうしんしゅ)
定価:¥5,192(本体価格¥4,720+税)
―― 特典として、描き下ろしイラストのオリジナル策舟アクリルスタンド(2個セット)が付く豪華特装版。
※通常版は一般流通、特装版はアニメイトとステラワースのみでの販売となります。
※特装版は数量に限りがございます。
■法人特典
小説「将進酒」第1巻 通常版・特装版 共通
●ステラワース=缶マグネット
●アニメイト=フォトカード
※数量には限りがございます。
■販売情報
●ステラワース
小説「将進酒」第1巻【通常版】(しょうしんしゅ)/法人特典付
https://www.stellaworth.co.jp/shop/item_list.php?category_id=&kw=110126
小説「将進酒」第1巻【特装版】(しょうしんしゅ)/法人特典付
https://www.stellaworth.co.jp/shop/item_list.php?category_id=&kw=110125
●アニメイト
小説「将進酒」第1巻【通常版】(しょうしんしゅ)/法人特典付
https://www.animate-onlineshop.jp/pn/pd/3280312/
小説「将進酒」第1巻【特装版】(しょうしんしゅ)/法人特典付
https://www.animate-onlineshop.jp/pn/pd/3280313/
■関連する公式サイト&公式X
ソニー・ミュージックソリューションズ配給作品 の公式サイト(ASIALL):https://asiall.jp/
本作に関するXでの公式情報発信(ゆるゆる配給漫筆):https://x.com/yuruyurumai?s=20