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大人気史劇BL小説「将進酒」
邦訳版第1巻の第四章までを無料公開!
(第三章・第四章はこちら)

2026年03月19日

(木)

お知らせ


壮大な世界観で数多くの読者を魅了してきた、中国原作の大人気史劇BL小説「将進酒(しょうしんしゅ)」。ファン待望の邦訳版第1巻が、2026年3月28日(土)頃に発売予定!通常版に加え、豪華特典付きの特装版は絶賛予約受付中です!

発売に先がけて、第四章までを無料公開いたします!
※こちらのページでは第三章・第四章をご覧いただけます。第一章・第二章は別ページよりご覧ください。
※読み仮名はこちらのページ上では()内に記載していますが、実際の書籍ではルビが入ります。

▼第一章・第二章はこちら

https://asiall.jp/s/lineup/news/detail/10012

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第三章 猛禽(もうきん)
 潘如貴(パンルーグイ)は大股で闊歩(かっぽ)しながら端成門へと向かった。両側には錦衣衛の校尉(こうい)が列をなして、押し黙っている。老宦官が立ち止まれば、咸徳帝の口勅(こうちょく)を読み上げ、錦衣衛が執行するという段取りだ。
 口を塞がれた沈澤川(シェンザーチュアン)を、錦衣衛が手際よく厚手の綿衣で包むと、地べたに転がした。
 寒空の下、潘如貴(パンルーグイ)が身を乗り出して沈澤川(シェンザーチュアン)の様子を見ると、指で軽く唇を隠し、咳払いをしながら、穏やかに話しかける。
「まだ年端もいかぬのに、陛下の前で虚勢を張るとは、実に肝(きも)が据わっているではないか。沈衛(シェンウェイ)が国を裏切った罪状をおとなしく認めていれば、一縷(いちる)の望みは残ったかもしれぬというのに」
 沈澤川(シェンザーチュアン)は固く目を閉じた。衣は冷や汗でぐっしょり濡れている。
 潘如貴(パンルーグイ)が体を起こして告げた。
「棍(こん)を置け」
 両側に控えていた校尉が一斉に声を上げる。
「棍を置け」
 それから間髪(かんはつ)を容(い)れず、再びけたたましく叫んだ。
「打ち据えろ!」
 言い終わらぬうちから、逆針がつき鉄に覆われた棍が勢いよく振り落とされ、沈澤川(シェンザーチュアン)の体を容赦なく打ちつけていく。
 三棍目が入ったところで、またも声が上がった。
「しかと打て!」
 火で体を焼かれるような痛みを皮膚と肉に打ち込まれ、沈澤川(シェンザーチュアン)はぴくりとも動けなくなった。口に詰め込まれた布切れをきつく嚙むほかなく、口に溜まった血を飲み込むこともできずに、塩辛い苦さだけが広がっていく。もはや息も絶え絶えで、滴る汗で見開いた目が痛いほどしみた。
 空は淀(よど)み、雪は真綿のごとく降りしきっていた。
 〔1〕廷杖(ていじょう)は誰にでも務まる仕事ではない。いわゆる「二十打たれれば失神、五十打たれれば廃物」である。打ち据えていく上での“こつ”や加減は実に奥が深い。一般には世襲の技であり、決して学問より習得がたやすいわけではなかった。しかもこの仕事は腕がいいだけでなく、機を見るに敏でなければいけない。軽く打ち据えているように見えて深手を負わせるべき者、激しく打ち据えているように見えて実は痛手を与えてはならない者。この道に長い彼らは、〔2〕司礼監(しれいかん)の大物太監の顔色さえ窺(うかが)えばすぐにそれが判断できた。
〔1〕廷上で杖や棍でうち添える刑のこと
〔2〕宦官の中枢機構
 そして今日咸徳帝が下した命令は「死ぬまで打ち据える」である。潘如貴(パンルーグイ)にも加減するようにという意図はない。つまり潮目が変わることもなく、死ぬべくして死ぬ人物なのだ。彼ら錦衣衛は一家相伝(いっかそうでん)の技で、五十棍以内に沈澤川(シェンザーチュアン)をあの世へ送ろうとしていた。
 潘如貴(パンルーグイ)が時刻を確かめた。予定どおり、沈澤川(シェンザーチュアン)はだらんと首をうなだれ動かなくなっている。手を伸ばして湯たんぽを引き寄せ、何か指示を与えようとすると、前方から揺らめく傘が近づいてくるのが目に入った。宮衣をまとった麗人が傘を差して歩いてくる。
 一瞬にして陰鬱な表情を消すと、潘如貴(パンルーグイ)は笑みを作ってみせた。自ら迎えることはしないが、そばにいた若い宦官が目端を利かせて駆け寄り、その手を支える。
「三(サン)お嬢様にご挨拶(あいさつ)申し上げます。こんな寒い日なのですよ。太后様からのお申し付けとあらば、人を遣わして伝えてくださればよいのに」
 そう言いながら潘如貴(パンルーグイ)が近づいていく。
 花香漪(ホワシャンイー)が軽く手を上げ、動かずともよしと錦衣衛に合図する。美しく艶(なま)めかしいその女は、長年太后のもとで育てられてきた。眉間からは若かりし頃の太后と幾分似通った趣(おもむき)が感じられる。闃都では荻城(てきじょう)花(ホワ)家三(サン)嬢の名で通っているものの、宮中の貴人であることは誰もが知っている。陛下からも実の妹のように溺愛されていた。
 その花香漪(ホワシャンイー)がゆっくりと声を落として言った。
「〔1〕公公(ゴンゴン)、そこに這いつくばっているのは中博沈(シェン)氏の息子沈澤川(シェンザーチュアン)ではない?」
〔1〕宦官への敬称
 潘如貴(パンルーグイ)が花香漪(ホワシャンイー)の歩調に合わせながら答える。
「まさしくその者です。先ほど陛下からの命(めい)が下りました。死ぬまで打ち据えよと」
「陛下は怒り心頭だったのよ。沈澤川(シェンザーチュアン)が死んでしまえば、沈衛(シェンウェイ)の売国事案はうやむやになってしまう。そこで太后様は〔2〕半刻前に明理堂へ行き、陛下をお諫(いさ)めになった。陛下のお怒りもいくらか収まったわ」
〔2〕一刻は現在の十五分
「あれまあ……」
 潘如貴(パンルーグイ)が困ったような驚きの声を上げる。
「太后様が仰せなら陛下も聞き入れるでしょうが、先ほどは雷霆(らいてい)のごとくお怒りでした。諫めたくとも私にそのような度胸はありませんから」
 花香漪(ホワシャンイー)が笑いかける。
「陛下から『廷杖』と命じられ、既にそのとおりにやったのでは?」
 すると潘如貴(パンルーグイ)は更に何歩か近寄り笑って答えた。
「ええ、先ほどはとにかく慌ただしかったのですよ。『死ぬまで』と聞こえたので、こやつをひとしきり打ち据えたのですが、はて、どうすればよいでしょうか」
 花香漪(ホワシャンイー)が沈澤川(シェンザーチュアン)に目を向ける。
「陛下が改めて審問するまで、ひとまず詔獄に戻しておくのね。この者の命は大事に関わる。公公からも紀(ジー)殿に伝えてくれるかしら。くれぐれも抜かりなく面倒を見るようにと」
「それはもちろん。三(サン)お嬢様からの仰せを紀雷(ジーレイ)が聞き流したりしましょうか。外は冷えて足元も滑りやすくなっています。小福子(シャオフーズ)よ、三(サン)お嬢様を支えて差し上げるように」
 花香漪(ホワシャンイー)が立ち去ると、潘如貴(パンルーグイ)は振り向き、両側の錦衣衛に指示した。
「陛下は『廷杖』だと仰せだ。この辺にして連れていけ。三(サン)お嬢様も言ったとおり、これは太后様のご意向である。戻って紀雷(ジーレイ)に伝えよ。この事案に関わる者は全て“神仙”だと。もし己の管理下でこやつに不測の事態でも起きようものなら……」
 潘如貴(パンルーグイ)が軽く咳払いをする。
「天の神が降臨しようとも、お前の首は守ってやれないとな」
 小福子(シャオフーズ)が戻ってきた。潘如貴(パンルーグイ)を支えながら周囲には誰もいないことを確かめてから、小声で尋ねる。
「お爺、簡単に放免して陛下から咎(とが)を受けませんか?」
 潘如貴(パンルーグイ)が雪を踏みつけながら答えた。
「陛下もお分かりだ。この件で我らを責めることはない」
 数歩進むだけで、襟首の中にも雪が入り込んでくる。
「一諾千金(いちだくせんきん)とも言うように、君主は朝廷の意向が定まらぬことを何より忌み嫌う。陛下は辺沙十二部が領土を侵し、ご自身もまた大病を患ったことで、三(サン)お嬢様を公主に封じるかをこの数日思慮されている。そのためにも太后様の歓心を買う必要があるのだ。あの者の命を取り留めるばかりか、太后様の要求となればいかなることも陛下は応じるしかない」
 そう言いながら、潘如貴(パンルーグイ)は小福子(シャオフーズ)に顔を向けた。
「太后様が口勅を改めたことなどあったか?」
 どんな事案であろうと、二言(にごん)なき者が真の主である。
⬥ ⬥ ⬥ ⬥ ⬥ ⬥
 沈澤川(シェンザーチュアン)は熱で朦朧としていた。目の前に紀暮(ジームー)の死に際が再現されたかと思えば、端州で生活していた頃の様子が蘇(よみがえ)ってくる。
 端州の風に吹かれ、幟(のぼり)が揺れていた。師娘がすだれをまくって出てくる。手に持っている白磁(はくじ)の碗には薄皮の中に餡(あん)のたっぷり詰まった餃子が山盛りになっていた。
「兄さんを呼んできなさい」
 師娘が呼びかけた。
「寄り道せずに、すぐに食事に戻りなさいと」
 沈澤川(シェンザーチュアン)は回廊の柵を飛び越え、すぐに師娘のそばへやってくると、箸で餃子を口に入れて走っていった。餃子はゆでたてで熱かったため、はふはふと口から息を吐く。門を出ると階段に座っている師父の紀綱(ジーガン)の姿が目に入ったので、すぐさまそばに行ってしゃがみ込んだ。
 紀綱(ジーガン)は手の中で石を滑らせながら、沈澤川(シェンザーチュアン)のほうを向き、鼻を鳴らした。
「馬鹿め、そんなに物欲しそうにする奴があるか。餃子がいくらのもんだ? 兄さんを呼んでこい。父子三人で鴛鴦楼(えんおうろう)に行ってご馳走(ちそう)をたらふく食うぞ」
 沈澤川(シェンザーチュアン)が答える前に、師娘が紀綱(ジーガン)の耳をつまんだ。
「餃子が気に入らないの? 上等だこと。お金があるのなら、嫁なんて必要ないでしょ。二人の馬鹿息子と暮らせばいいわ」
 沈澤川(シェンザーチュアン)は声を出して笑うと、階段から飛び降り、師父と師娘に向かって手を振った。そのまま路地へと走り出し、兄の紀暮(ジームー)を捜しに行く。
 通りは激しく雪が降っていて、捜せど捜せど兄は見つからない。歩けば歩くほど元いた場所から遠ざかり、体は凍えていった。
「兄さん」
 四方八方に向かって叫ぶ。
「紀暮(ジームー)! 家に帰ってご飯を食べよう!」
 蹄の音が少しずつ包囲してくる。大雪に視線を遮られ、蹄の音の中へどっぷりはまり込んだ感覚に襲われたが、周りには人っ子一人いない。殺し合う叫び声が耳元で響き渡ると、熱い血が顔に飛び散った。両脚がうずき、抗い難い力で地面に押しつけられる。
 すぐそばには死人がいて、矢の雨が風を切るようにうなり声を上げる中、背にずしりと人の重さがのしかかってきた。粘り気のある熱を帯びた液体がうなじを伝って頬へと滴っている。
 それが一体何なのか、今なら理解できた。
 震えながら沈澤川(シェンザーチュアン)は目を覚ました。汗でぐっしょりと濡れ、あまりの寒さに身を震わせる。床板につっぷしていると、ようやく薄暗さの中でも目が慣れてきた。
 獄房では、雑役が汚物を片づけていて、油灯をともしている。
 沈澤川(シェンザーチュアン)が口の中の渇きを覚えると、それに気づいた雑役が冷水を入れた碗を床板に置いた。熱と寒さが交互に襲ってくる。ゆっくり指で碗を引き寄せるが、水は半分こぼれてしまった。
 獄中で言葉を発する者は誰もおらず、雑役が出ていくと沈澤川(シェンザーチュアン)だけが残された。意識が戻ったかと思えば遠のき、まるで終わりのない夜が続くかのようだ。どうあがいても夜明けを迎えることはない。
 雑役が貼り薬を替えに再び獄房を訪れた頃、沈澤川(シェンザーチュアン)の意識もだいぶはっきりしてきた。紀雷(ジーレイ)が柵を隔てたところにいて、冷ややかな口調で話しかける。
「災いは千年遺(のこ)ると言うが、お前は強運の持ち主だな。太后がお前の一命を助けた理由も分からんだろ」
 沈澤川(シェンザーチュアン)はうつむいたまま動かない。
 紀雷(ジーレイ)が続ける。
「お前の師父は〔1〕江湖の世捨て人、紀綱(ジーガン)なんだろ? 二十年前、俺と奴は兄弟弟子で、お互いこの闃都の禁中で錦衣衛として身を捧げてきた。お前は知らんだろうが、奴はかつて錦衣衛の従三品の〔2〕指揮同知(しきどうち)だったんだぞ。俺もかの紀(ジー)家拳の使い手だ」
〔1〕「官」に対して隠者の住む地。転じて侠客や武芸者、盗賊などの世界を指すこともある
〔2〕錦衣衛の二番目の職位
 沈澤川(シェンザーチュアン)は頭を上げ、相手に視線を向けた。
 紀雷(ジーレイ)が牢の扉を開ける。雑役が出ていき、周囲に誰もいなくなると、沈澤川(シェンザーチュアン)の横たわる床板のそばに座った。
「その後、奴は罪を犯した。首が飛ぶほどの罪だったが、慈悲深い先帝は命までは取らず、関馬道(かんばどう)より果てへと流刑に処したというわけだ」
 紀雷(ジーレイ)が膝に手をつくと、光を背にして歯を剥いて笑ってみせる。
「お前の師父は──何の実力もない、運がいいだけのふがいない野郎だ。奴がどうやって生き延びたと思う? 今のお前と同じだよ。お前の師娘の恩恵を受けたのさ。師娘がどんな人物かもお前は知らないだろうな。いいか、お前の師娘は花娉婷(ホワピンティン)。闃都にある岑南(しんなん)八城のうち、荻城花(ホワ)家は太后の本家さ。つまり今日太后がお前を助けたのは、お前の師娘のためってことだ」
 紀雷(ジーレイ)はうつむいて声を落とした。
「だが師娘は既に乱戦の中で命を落とした。だから紀綱(ジーガン)はふがいないっていうんだ。二十年前に父が死に、二十年後には妻と息子が死んだ。その元凶は誰か、まだ気づかないか? よく分かっているはずだ。元凶は他でもない沈衛(シェンウェイ)だとな!」
 沈澤川(シェンザーチュアン)は息が詰まった。
「沈衛(シェンウェイ)が茶石河の防御線を解いたことで、辺沙騎兵がどっと押し寄せ、その湾刀がお前の師娘の喉をかき切ったのさ。事切れる前の師娘の身に何が起きたか、それを紀綱(ジーガン)が知ったら生き地獄を味わうことになるだろうよ」
「端州が陥落し、お前は兄に救われたと言ったな」
 紀雷(ジーレイ)は椅子にもたれかかると、手の甲をしげしげと見つめた。
「紀暮(ジームー)といえば、お前は紀綱(ジーガン)に育てられたんだから、お前の兄も同然だ。だが同時に紀綱(ジーガン)の一人息子でもある。つまり紀綱(ジーガン)の血を引く一粒種であり、紀(ジー)家の唯一の後継者なんだ。しかし沈衛(シェンウェイ)のせいで、そしてお前のせいで、紀綱(ジーガン)は息子までも失っちまった。体中を矢で射貫(いぬ)かれ、死骸は天坑に放置されたまま、辺沙騎兵の足蹴にされ馬にも踏みつけられたときてる。紀綱(ジーガン)がまだ生きていたとして、息子の亡骸を見つけた時どう思うだろうな?」
 沈澤川(シェンザーチュアン)はがばっと身を起こすが、紀雷(ジーレイ)から事もなげに押さえつけられた。
「沈衛(シェンウェイ)が敵と通じて国を裏切った罪は、お前が背負わなければならない。今日お前が生き延びてしまったことで、中博で死んだ数万もの浮かばれない魂は泣き叫んでいるだろうよ。夜眠りについた時に、どれが師娘でどれが師父の魂か区別がつくかな? お前はまだ生きているが、生き延びることは死ぬことよりも更なる苦痛をもたらす。お前は沈衛(シェンウェイ)を許せるか? お前が沈衛(シェンウェイ)を許してその罪を洗い流すことは、お前の師父一家への裏切りとなる。紀綱(ジーガン)から育ての恩を受けておきながら、不忠不孝でいいわけがない。しかもお前が生き恥を晒(さら)したとして、この世でお前を許す者などいると思うか? 闃都へ来た以上、お前が沈衛(シェンウェイ)なのだ。今や民の憤りは天までみなぎっているぞ。お前に対し恨み骨髄に入る者は数えきれないほどいる。どうせ死ぬのなら、うやむやにして死ぬのではなく、陛下にありのままを申し上げて、沈衛(シェンウェイ)の罪を洗いざらい認めろ。そうしてこそあの世にいるお前の師父の霊も浮かばれるってもんだ」
 突然、紀雷(ジーレイ)は言葉を止めた。床板に押しつけられていた沈澤川(シェンザーチュアン)が笑みを漏らしたのだ。青白い少年の面立ちに、冷ややかでぞっとするような不気味さが浮かぶ。
「沈衛(シェンウェイ)は敵に通じてはいない」
 一言一句、嚙みしめるように吐き捨てた。
「沈衛(シェンウェイ)は敵に通じてはいない!」
 紀雷(ジーレイ)は沈澤川(シェンザーチュアン)を摑んだまま、壁へと激しく投げつけると、ドンという音が鳴り響いて土壁がいくらか剥(は)がれ、沈澤川(シェンザーチュアン)が激しく咳き込む。
「お前を殺す方法ならごまんとある」
 紀雷(ジーレイ)が続けた。
「ありがたみを知らない野良犬め。運よく一度は命拾いしたが、明日まで生きていられると思うな」
 そう言って荒っぽく沈澤川(シェンザーチュアン)を引きずると、紀雷(ジーレイ)は牢の扉を蹴り飛ばして外へと歩いていく。
「俺は公正に職務に当たるし、太后の命令にも従うが、大周にはやりたい放題の連中もいる。お前がそこまで愚か極まりないなら、願いを叶えてやろう。お前を殺したがっている者のおでましだ」
 闃都の城門が前触れもなく大きく開かれた。列をなす漆黒の重騎がいななきとともに、疾風のごとくなだれ込んでくる。
 そこへ沈澤川(シェンザーチュアン)が引きずられていくと、錦衣衛が轟然(ごうぜん)と散っていった。密集していた一群も両端に寄り、一列になって進む重騎に道を空(あ)ける。
 天幕の上空には離北の猛禽(もうきん)が旋回しており、重苦しい甲冑(かっちゅう)の音がずしりと胸に響いた。蹄の音が徐々に近づいてくる。沈澤川(シェンザーチュアン)が目を見開くと、先頭の重騎兵が突進してくるのが視界に飛び込んできた。
 重装備の兵を乗せた駿馬は猛々しい獣も同然である。荒ぶる熱気のごとき鼻息が数歩まで迫ったが、足元の塊(かたまり)を蹴散らす寸前、轡(くつわ)によって動きは制止された。高く跳び上がった蹄が地に着くのを待ち、馬上の人はさっそうと身を翻(ひるがえ)して馬を降りた。
 前に進み出た紀雷(ジーレイ)が、高らかな声を放つ。
「お迎えします、蕭(シャオ)……」
 迎えられた人は紀雷(ジーレイ)には目もくれず、そのまま沈澤川(シェンザーチュアン)の前へとやってきた。沈澤川(シェンザーチュアン)が枷を動かしただけで、その胸目がけ雷霆のごとき速さで蹴りを浴びせる。
 その力はあまりにも強く、蹴られたほうは耐える余裕もなくガハっと血を吐いた。全身が煮えたぎり、すぐに五臓六腑までも吐き出してしまいそうなほどに。

第四章 〔1〕余蘖(よげつ)
〔1〕滅亡した一族の生き残り
 軍靴(ぐんか)が降り積もった雪を踏みつけ、沈澤川(シェンザーチュアン)の隣へと回り込んだ。足先で沈澤川(シェンザーチュアン)の顔を自分に向かわせると、軍靴に血痕がこすりついた。兜(かぶと)の下から重苦しい声が漏れてくる。
「沈衛(シェンウェイ)はお前の親父か?」
 沈澤川(シェンザーチュアン)の食いしばった歯の隙間からは血がとめどなく流れ、慌てて手で覆い隠そうにも無理だった。そのまま問いには答えずにいる。
 上から見下ろすその人は、しばらく相手の反応を待ってから迫った。
「何とか言え」
 沈澤川(シェンザーチュアン)が血を口に含みながら、頭を垂れて頷く。
 紀雷(ジーレイ)がここぞとばかりに、横やりを入れた。
「沈衛(シェンウェイ)の第八子で、名は沈(シェン)……」
 その人が腕を上げて兜を取ると、下から若々しい顔を覗かせた。天空を旋回していた〔2〕海東青(かいとうせい)が風を切りながら肩に止まると、それに続いて星屑(ほしくず)のような細かい雪が舞い上がる。沈澤川(シェンザーチュアン)など一顧だにしないその目つきは、侮蔑(ぶべつ)なのかそれとも憎悪なのかも判断し難く、いわば研ぎ澄まされた冷たい刃のようだ。
〔2〕狩りなどに使われたハヤブサの古称
 沈澤川(シェンザーチュアン)はその人物が誰か知る由もなかったが、離北鉄騎だとは認識できた。
 沈衛(シェンウェイ)が当初慌てふためくように西へ撤退した先の茨州(ししゅう)は、既に中博最後の防御線となっていた。離北鉄騎が南下し、世子蕭既明(シャオジーミン)は雪の中を行軍、三日三晩休まず氷河を渡り、茨州へと駆けつけた。しかし、あろうことか沈衛(シェンウェイ)は茨州さえも守りきれず、離北鉄騎は何重にも包囲される事態に陥ったのである。蕭既明(シャオジーミン)が先を見越して後方に援軍を備えていなければ、またも悪戦となっていたであろう。
 その時から離北が最も恨むべきは中博沈(シェン)氏となった。
 その人は蕭既明(シャオジーミン)ではない。だが闃都で馬を走らせ、肩には猛禽が止まっていることから、彼こそ離北王の末子にして、蕭既明(シャオジーミン)の実弟、蕭馳野(シャオチーイエ)で間違いないだろう。
 本来紀雷(ジーレイ)は蕭馳野(シャオチーイエ)をけしかけるつもりだったが、その背後に控える副将の朝暉(ジャオフイ)を見ると、そんな気はすっかり失うせてしまった。
 蕭馳野(シャオチーイエ)は無造作に朝暉(ジャオフイ)に兜を投げると、口の端に笑みを浮かべた。先ほどの刃のような鋭い視線も、氷が解けていくかのごとく和(やわ)らぎ、即座に放埓(ほうらつ)で軽薄な雰囲気を醸し出してくる。身に着けている甲冑すら不釣り合いに思えてきた。
「紀(ジー)殿」
 紀雷(ジーレイ)の肩に腕を回す。
「久しぶりだな」
 紀雷(ジーレイ)は蕭馳野(シャオチーイエ)を見て豪快に笑った。
「二公子、数年会わないうちに、随分とよそよそしくなった」
 蕭馳野(シャオチーイエ)は佩(は)いている刀を指さす。
「刀を持っているからな、一応兵みたいなもんだ」
 紀雷(ジーレイ)はさも今見たかのように、笑みをたたえた。
「いい刀だ。こたびは陛下を助けるために参上いただき、道中ご苦労だった。陛下の謁見を賜(たまわ)ったあと、夜は酒でも飲みに行こう」
 蕭馳野(シャオチーイエ)はいたく残念な顔をしてみせた。後ろに控える副将朝暉(ジャオフイ)を見るよう目配せする。
「兄上のお目付け役がいるのに酒を飲んだところで存分に楽しめやしない。数日経(た)って解放されたら、俺がご馳走しよう」
 朝暉(ジャオフイ)が無表情で紀雷(ジーレイ)に頭を下げる。
 紀雷(ジーレイ)は笑って答えた。
「ではまず宮中へ向かおう。儀仗(ぎじょう)隊も待っている」
 両者は気の向くまま談笑し、宮中へと入っていく。その後を朝暉(ジャオフイ)がついていき、去り際に沈澤川(シェンザーチュアン)に目を向けた。そばにいた錦衣衛がその意図を察し、また沈澤川(シェンザーチュアン)を連れて戻っていく。
 蕭馳野(シャオチーイエ)が宮中に入るのを見届けた紀雷(ジーレイ)は、周りが自分の配下だけになるのを待って、忌々(いまいま)しそうに唾を吐いた。笑みはすっかり消え去り、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべている。
 普段から肝が太くて向こう見ずなあのならず者なら、沈澤川(シェンザーチュアン)を殺したとしても、自然な筋書きとなるはずだった。ところがあの役立たずときたら、軽くあしらったのだから何ともずる賢い。蹴り飛ばしただけで簡単に沈澤川(シェンザーチュアン)を放免したのである。
 宮中へと入った蕭馳野(シャオチーイエ)は、朝暉(ジャオフイ)に手巾を渡され、そのまま進みながら手を拭いた。
 朝暉(ジャオフイ)が低い声で話す。
「さっきの蹴りですが、随分と危ない橋を渡りましたね。沈(シェン)氏の残党があの場で死ねば、太后のご不興を買ったかもしれません」
 蕭馳野(シャオチーイエ)の顔から笑みが消え、眉間に暗い影が差す。戦場から直接駆けつけてきたためか、荒々しい殺気を隠すことができず、道案内をする宦官も聞き耳を立てることすら憚(はばか)った。
 蕭馳野(シャオチーイエ)が冷淡に答える。
「死ぬまで蹴ってやりたかったさ。沈(シェン)の老犬が中博を血祭りにしたせいで、茶石天坑の軍士たちは半月経っても埋葬できないままでいる。花(ホワ)家は私情から老いぼれの残党を守ろうとしてるが、天下にそんなうまい話があるわけがない。しかも兄上は敵を追って千里を駆け、この一戦で上り詰めるところまで上り詰めた。俺たち離北がここまで栄耀を極めたんだから、早々に太后からは目をつけられてる」
「『月が満ちれば欠け始める』とは世子も常々仰せです。闃都にて褒賞を与えるというのも、大方は鴻門(こうもん)の会のようなもの。公子、大軍は闃都の外百里に駐留しており、城内の至る場所には世家(せいか)の耳目(じもく)が潜んでいます。くれぐれも先走るようなことはなさらぬように」
 蕭馳野(シャオチーイエ)が手巾を朝暉(ジャオフイ)に返して言った。
「分かってるって」
 咸徳帝が鸚鵡(おうむ)を餌付けしている。
「阿野(アーイエ)は到着したのか?」
 この羽根をまとった畜生は実にちゃっかりしていて、口を開くと、咸徳帝の言葉を真似して叫んだ。
「阿野(アーイエ)が到着した! 阿野(アーイエ)が到着した! 阿野(アーイエ)が陛下に拝謁します! 陛下! 陛下! 万歳、万歳、万々歳!」
 蕭既明(シャオジーミン)が手に餌を持って答える。
「そろそろ着く頃でしょう」
「二年だな」
 咸徳帝が鸚鵡をあやしながら続けた。
「会うのは二年ぶりになる。そちの父に似て、背が伸びるのが早い。そのうちそちを追い越すかもしれんな」
「背は伸びましたが、子供心が抜けきれません。家でも騒ぎばかり起こしていますよ」
 咸徳帝は何か言いかけたが、またも咳き込んだ。そばで控える潘如貴(パンルーグイ)から差し出された茶で喉を潤したが、言葉を発する前に蕭馳野(シャオチーイエ)の到着を告げる声が響く。
「入るがよい」
 椅子に戻った咸徳帝が手招きした。
「朕に顔を見せよ」
 若い宦官が注意深く帳(とばり)を上げると、蕭馳野(シャオチーイエ)が敷居を跨(また)いで入ってきた。寒気を帯びながら跪くと、叩頭して拝謁する。
 その姿を見た咸徳帝が顔に笑みをたたえた。
「こやつ、甲冑などまといおって、何とも堂々とした佇(たたず)まいではないか。話には聞いているぞ。一昨年、辺沙十二部が糧道と駅館を襲った際、腕の見せ所だと数人を生け捕りにしたそうだな。違うか?」
 蕭馳野(シャオチーイエ)が笑う。
「買いかぶりすぎですよ。捕らえはしましたが、どれも下っ端の兵にすぎません」
 実は一昨年、辺沙十二部が関北の糧道を襲撃した際、蕭馳野(シャオチーイエ)は初陣として兵を率い、沙辺の薙髪からこれでもかというほど打ちのめされ、蕭既明(シャオジーミン)が後始末をするという有り様だった。この件は笑い話となって広まり、蕭馳野(シャオチーイエ)は誰もが知る「役立たず」に成り下がったのである。
 そんな彼を見て咸徳帝も穏やかに語りかけた。
「そちはまだ若いが、馬上で戦う腕は一人前だ。ただ兄は我が大周四大名将の一人である。普段より兵法についてはいくらか指導を受けているはずだ。既明(ジーミン)よ、阿野(アーイエ)も志(こころざし)を高く持っているようだし、厳しすぎてもよくない」
 蕭既明(シャオジーミン)が頷く。
 咸徳帝が続けた。
「こたび離北鉄騎がこの危機を救ったことは功績に値する。昨日は大いに賞したが、阿野(アーイエ)にも少しは褒美をやらんとまずかろう」
 蕭既明(シャオジーミン)が体を起こして頭を下げる。
「陛下のご恩情を賜れるとは、弟は果報者です。しかし塵(ちり)ほどの功績も立てておりませんのに、そのような褒美は身に余ります」
 咸徳帝は一瞬押し黙って、口を開いた。
「千里を駆け、夜の氷河を渡った功徳は計り知れない。
阿野(アーイエ)に限らず、そちの妻、陸亦梔(ルーイージー)についても賞さねばならん。阿野(アーイエ)、離北は国境となる要地だ。若いそちが長らくいれば味気なさも免れまい。そこでそちを闃都に呼び、〔1〕儀鸞(ぎらん)指揮使の任を満喫させようと思うが、どうだ?」
〔1〕儀仗・禁宮の守護を司る長
 うなだれて動かずにいた蕭馳野(シャオチーイエ)が、その一声を聞くや否や顔を上げる。
「陛下からの褒美なら、もちろん頂戴します。うちにいるのは猛将ばかりで、歌曲を聴く場所もありませんからね。闃都にいれば、楽しさで離北なんて忘れてしまうでしょう」
 それを聞いた咸徳帝は声をたてて笑った。
「こやつめ。守衛にしてやろうと言っているのに、遊ぶことしか考えていないのか。そちの父が聞いたら仕置きからは逃げられまい」
 場の雰囲気も和らぎ、咸徳帝は彼ら兄弟二人に食事を取るようその場に留めた。そして兄弟が退出する時になって尋(たず)ねる。
「啓東も人を寄こしたようだが、どの者だ」
「辺郡の陸広白(ルーグアンバイ)です」
 蕭既明(シャオジーミン)が答えた。
 咸徳帝は幾分疲れたのか、椅子にもたれかかりながら手を振る。
「明日参内(さんだい)させよ」
 蕭馳野(シャオチーイエ)は蕭既明(シャオジーミン)の後に続いて退出した。何歩も歩かないうちに、廊下で跪く姿が目に入る。潘如貴(パンルーグイ)が近づき、身をかがめてにこやかに声をかけた。
「陸(ルー)将軍、陸(ルー)将軍」
 陸広白(ルーグアンバイ)が目を見開き、疲れきったように答える。
「潘(パン)公公」
「跪かないでください。今日は陛下もお疲れで、お会いできるのは明日になります」
 陸広白(ルーグアンバイ)は何も言わずに頷くと、蕭(シャオ)家の兄弟とともに出ていった。宮門を出て馬に跨(またが)ってから、蕭既明(シャオジーミン)が話を切り出す。
「どうしてずっと跪いていた」
「陛下は私に会いたくないのだ」
 二人はしばらく黙っていた。その理由は言わずもがなだが、陸広白(ルーグアンバイ)は特に恨み言を言うこともなく、蕭馳野(シャオチーイエ)のほうを振り向く。
「陛下に褒美をもらったか?」
 蕭馳野(シャオチーイエ)は手綱(たづな)を引いた。
「俺を檻に囲う気だよ」
 陸広白(ルーグアンバイ)が腕を伸ばして蕭馳野(シャオチーイエ)の背を叩く。
「お前じゃない。お前の兄と父を囲うのさ」
  しばらく蹄の音を聞いていた蕭馳野(シャオチーイエ)が、ようやく口を開いた。
「陛下が〔2〕嫂(あね)上の話をした時は、冷や汗が出たけどね」
  陸広白(ルーグアンバイ)が蕭既明(シャオジーミン)とともに笑みを浮かべる。
〔2〕義理の姉のこと。 蕭馳野(シャオチーイエ)の兄、蕭既明(シャオジーミン)の妻
「離北王と亦梔(イージー)は元気か?」
 蕭既明(シャオジーミン)は頷いた。彼は朝服の上に氅衣を羽織っていて、甲冑を脱ぎ去ったその姿は蕭馳野(シャオチーイエ)ほどの若さと荒々しさはないが、視線をそらすことのできないある種の空気をまとっている。
 「二人とも元気だ。父上は陸(ルー)将軍の脚の傷を心配していて、よく効く膏薬(こうやく)を私に持たせたほどだ。亦梔(イージー)も息災だが、身ごもってからは実家やお前たちを恋しがっていて、手紙をたくさん書いていた。持参したのであとで屋敷に届けよう」
 陸広白(ルーグアンバイ)がやけに縮こまって手綱を引く。
「家は無骨者ばかりで、付き添ってやる女たちもいない。離北の冬は厳しいからな。辺軍から兵を率いてきたが、知らせを聞いて道中案じていた」
「確かに」
 蕭馳野(シャオチーイエ)も頭をかしげて言った。
「茨州があれほどの危機に陥れば、兄上は身動きが取れない。俺に家へ手紙を書かせなかったのも、嫂上に心配させないようにするためさ。今回の戦いはあまりにも突然のことだった。兄上も嫂上も、兄上が家を離れる時に懐妊を知ったくらいだから」
「父上が家に鎮座することで、亦梔(イージー)を守ってやれる。心配はない。年が明けて家に戻ったら、私がずっとそばにいる」
 生来、蕭既明(シャオジーミン)は自制が利くゆえ、この時もそう語るにとどめた。
 陸広白(ルーグアンバイ)が嘆息する。
「ここ数年、離北は矢面(やおもて)に立たされていて、出兵するたびに熟慮する必要があるというのに。こうなっては、あんなお荷物を残した沈衛(シェンウェイ)の臆病風を恨むしかないな。我が兵が茶石天坑を通ったが、辺り一面に血溜まりが広がって、その深さときたら馬蹄(ばてい)を隠すほどだった。沈衛(シェンウェイ)は死罪が免れないため自焚したそうだが、偶然とは思えない。既明(ジーミン)、お前は奴の息子を捕らえて都入りしたんだろ。何か気づいたことはあるか?」
 風が強まり、蕭既明(シャオジーミン)が氅衣を引き寄せた。
「沈衛(シェンウェイ)は嫡庶の別を重んじていた。その息子は八番目の庶子で、母親の実家が何の後ろ盾もなく端州で育ったため、内情を知らなくて当然だ。ただ陛下があのように執着するのも、何か理由があってのことだろう」
 蕭馳野(シャオチーイエ)が兜をかぶって言った。
「衆人の怒りは消え難い。陛下は中博六州を守るべく自ら兵権を沈衛(シェンウェイ)に託したのに、こんなことが起きたんだ。
陛下は自分の正当性を示すためにも誰かを見せしめに殺さなきゃいけない」
 とはいえ、周国の権力を主動できるのは皇帝ではなく、垂簾(すいれん)聴政を行っている太后である。目下、状況は膠着(こうちゃく)し、沈澤川(シェンザーチュアン)の命がどうなるかを誰もが注視している。もし彼が罪を認めて死ねば皆満足するが、死なずにいれば忌々しい敵(かたき)でしかない。今や離北蕭(シャオ)氏は栄耀を極めており、啓東総帥の戚(チー)家ですら争いを避けるほどである。蕭既明(シャオジーミン)は四大名将の「鉄馬氷河」として名高いだけでなく、啓東辺郡陸広白(ルーグアンバイ)の妹の夫でもあるのだ。突き詰めて言えば、彼は離北鉄騎だけでなく、妻の実家の力を借りて辺郡守備軍まで動員できる。闃都が警戒するのは当然のことだろう。
「太后がどうしても生かしておきたいらしい」
 陸広白(ルーグアンバイ)が薄い唇をきつく結んだ。
「来る日を見越してだ。中博を正当に奪い返すことができて、かつ自分に服従する獣を育てるためにな。そうなれば朝廷内の権力は盤石となり、離北をけん制して、いずれは大患となるぞ。既明(ジーミン)、その息子は決して生かしてはならない!」
 街道は雪を伴う猛烈な風が吹き、刃のごとく頬を打ちつけている。三人は誰も口を開かない。長い静寂の中、ずっと後ろで押し黙っていた朝暉(ジャオフイ)が馬を前に進めた。
「公子が入れた蹴りは八分の力ながら胸を直撃していました。奴は既に虫の息で、倒された時には古傷から出血していましたが……」
 朝暉(ジャオフイ)が思案する。
「その場で命を落とすことはなかった」
 蕭馳野(シャオチーイエ)は鞭を持って言った。
「何日も審問を受け、廷杖にも処されていた。もともと瀕死の状態だったが、あの蹴りで更に黄泉路(よみじ)に近づいただけってことだ。よほど悪運が強くなければ、さすがに今夜は越せない」
 しかし朝暉(ジャオフイ)が眉をひそめる。
「確かにやせ細って弱々しく、護送中に侵された風寒も治っていませんでした。普通なら事切れてもおかしくないはずが、まだ生き長らえています。これにはきっと裏があるはずでは? 世子……」
 蕭既明(シャオジーミン)が横目で彼らを見るも、二人は黙り込みそれ以上話すことはなかった。猛烈な風を受けながら前方に続く道を眺めると、半刻ほどの沈黙があってからようやく口を開く。
「生きるも死ぬも、全て定めだ」
 強い風がうなりを上げて吹きすさぶ中、両側の軒下に吊ってある風鈴がチャリンチャリンと音を立てている。雪に漂う殺気が一瞬散ると、蕭既明(シャオジーミン)が馬上で居住まいを正し、落ち着いた様子で馬の腹を蹴って走り出した。
 馬上の朝暉(ジャオフイ)も頭を下げると、そのまま馬を走らせ追いかけていく。
 蕭馳野(シャオチーイエ)の表情は兜の下ではっきりしない。陸広白(ルーグアンバイ)が彼の肩を叩いて言った。
「さすがお前の兄だな」
 蕭馳野(シャオチーイエ)は笑みにも似た顔でつぶやく。
「……定めか」
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